泉を聴く

徹底的に、個性にこだわります。銘々の個が、普遍に至ることを信じて。

信頼か不信か

2022-10-02 16:16:42 | 使える知識
「使える知識」の4回目は、「信頼か不信か」。これは「信頼vs不信」とも言えます。相反する力の中でどう乗り越えていけるのか。
 私がかつて、「自己同一性」に苦しんでいたとき、エリクソンというアメリカの心理療法家を知りました。「アイデンティティ」という言葉を広めた人です。
「アンデンティティ」、要するに「自分とは何者か?」。職業選択の際に悩みまくりました。
 若者向けの(確か29歳以下)ハローワークにも行ったことがあります。そこでも自己分析やグループワークをやるのですが、私の場合、結局「書きたい」という結論になる。だからといって「書く」ことが仕事に直結しない。あまたある「ライター」の仕事はどうしてもやる気が起きない。じゃあどうすればいいのか? 結果的に大卒でアルバイトで入った書店勤務が続いています。が、今だって葛藤が解消したわけではありません。
 エリクソンは、人の発達の過程で8つの危機があると提唱しました。
①乳児期の信頼感vs不信感
②幼児期の自律性vs恥、疑惑
③学齢前期の自主性vs罪悪感
④学齢期の勤勉性vs劣等感
⑤思春期、青年期の自我同一性vs同一性拡散・混乱
⑥成人期の親密性vs孤立
⑦壮年期の世代性vs自己陶酔
⑧老年期の知恵vs絶望
 これを見ただけでも、ははーん、と思いませんか?
 これらの危機をどう乗り越えていけるか。その具合によって個体の発達も決まってくる。
 私は5番目で大きくつまづいたわけです。まさに同一性どころではなく、拡散と混乱にあった。二つの相反する力が心の中で闘っているイメージ。
 5番目でしくじると4番目もダメだったかもと弱気になってくる。4番目もダメだと3番目も、いや2番目も、いやいや、最初からやり直しだったかもしれない。いっときは人間不信にも陥っていましたから。父に、「自分て何?」と問うた記憶があります。それほど自分を無価値に思って。ですが父は「宝だ」と言ってくれました。心から。それで救われた。
 いつだってこの見えない闘いは行われていて、おそらく課題をクリアしていくほどに発達もよく、幸福度や充実度や社会への貢献も増大すると思われます。オリンピックの汚職事件などは7番目の自己陶酔に傾きすぎたと言えます。おじさん・おばさんたちはいつも自己陶酔の危機にある。自分も例外ではありません。
 課題をクリアしていたとしても、引き戻しの力もいつもある。そしておそらくこの発達過程も階層になっていて、前の段階の発達具合が次の発達課題への支えともなれば足を引っ張ることにもなる。今うまくいっていなければ、ひとつ前に戻って組み立て直す必要がある。私にとってはとても腑に落ちるエリクソンからいただいた大切な知識です。
 で、①をご覧ください。人のしょっぱなの課題、ミッション、獲得のための闘い、それは人を信頼できるかどうか、です。
 これは本当に生まれ落ちた環境に左右される。「よく来たね。生まれてきてくれて本当にうれしい。ありがとう」と、最大限のようこそ! ウェルカム! でいっぱいだったのか、あるいはその逆、「お前のせいであたしゃ不幸になったんだよ。生まれなきゃよかったのに。邪魔だ。クソガキうるせー。生むつもりなんかなかった」など、呪いとしか言いようのない環境に生まれ落ちてしまったら、人を信頼するどころではありません。不信感が募ってしまう。
「三つ子の魂百まで」と言いますが、この発達課題の一発目の乗り越え方が、後々の人生の課題に重くのしかかってくることと言えます。
 ①から⑧までの課題、危機をすべて乗り越えられなかったらどうなるでしょうか? 不信感の塊で、恥じて疑ってばかり、罪悪感が薄まることもなく劣等感に苛まれ、自分が何者かわからないまま、悩みを打ち明けられる友もなく、解決を試みることなく現状に没入し、やがて絶望感が雪だるまのように膨らんでいく。そんな人は何をするでしょうか? 思い出したくないけど、しっかり脳裏に刻まれている数々の悲惨な事件が思い浮かんでは来ないでしょうか?
 そんな「どん詰まり」に行き着く一番始め、いわば初期設定に「信頼vs不信」があるということ。人を信頼できるかどうか。この能力が人の人としての基本です。
 この知識はどんな対人関係でも応用できます。例えば接客。接客業が終わりのない修行と言われる所以でもあります。私も書店での接客業が長くなりましたが、まず信頼していただくことが第一だと学習できたから続いてきたとも言えます。
 じゃあ、何が人の信頼を作るのか? 「ようこそ!」「ウェルカム!」「いらっしゃいませ!」これらの言葉に共通している心とは何なのか?
 それは、カウンセラーをカウンセラーたらしめる三つの条件、「無条件の肯定的配慮」「共感的理解」「純粋性」だと、私は思っています。そしてこの三本柱もまた普遍的で全世界に共通の応用可能な人の能力なのではないでしょうか? しかもカウセラーだからこそできるという難しいものでもない。誰でも無意識にやってもいること。だけど、あまり意識してはいない。意識して使える人が増えれば増えるほど、先に挙げた課題を克服していく人も増える、と思う。だから私は広めたいと思って書いています。
 その三つ、「無条件の肯定的配慮」と「共感的理解」と「純粋性」とは何なのか? それは次回から順に、書いていこうと思います。

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