この前書いたら、もう一つ書きたいことが出てきたので書いておきます。
それは、「本物は解放する」ということ。
これが「使える知識」なのかは、よくわかりませんが、私が体験から学んだ「結晶化した知恵」のようなものです。
特に、人間関係において、腑に落ちることが多いと思います。
そもそも、何が「本物」なのでしょうか?
揺るがない、たった一つである、にせ物や見かけばかりの物ではないこと、その名に値する。
例えば、「先生」、それに「友人」。本物は、その名に値する。
ニセモノではなくホンモノであるから、持続する。持続可能性ということも、本物の条件に入っていると思います。
本物は、真、真実でもあります。
心で、体で、その人の存在そのものが、そのようになろうとしている真。
「ああしろ」とか「こうしろ」とか「こうした方がいい」とか「はやく!」とか、あるいは「ばか」とか、ではなく。
要するに言葉だけじゃない。どんな服を着ていても、マスクをしていても、あるいはメイクをしていても、人間だからこそ「感じ取って」しまうもの。
お酒の力を借りないと、「腹を割って話す」ことが難しい人がいます。
お酒を飲んで、体を痛めてまで、その人は何をしようとしているのでしょうか。
「解放」されたいのではないでしょうか?
何から解放されたい?
自分でもよくわからない、息苦しさから。生きにくさから。あるいは慢性的な疲労、寝不足、イライラ、不安。
真、いのちとしての自分の現在の状態と、会社や仕事でつきあう人間関係や家族関係の中での自分との「ずれ」。
そんな誰にでもあるけど、人によってものすごく大きくなってしまうこともある「ずれ」を、話し合うことができれば、そのずれを修正していくことが生きる希望になる。逆に、「ずれ」が、その人と会うことによって広がってしまうなら、その関係は偽物ということ。それが本当の親子であったとしても。
ただ、偽物と分かっていても、付き合う必要のある関係もある。仕事の上司とか、同僚とか、クラスメートとか、学校の先生とか、ママ友とか、親子も。でも、自分が満たされることのない関係ばかりでは、息苦しくなって当然ですね。
生まれた子は、その親を「人間の見本」として、「人間の真の姿」として真似をして育ちます。
いつの間にか言葉を覚えてしまったように。その人の喋ることや喋り方も、「感じ取って」学習して身につけるもの。
でも、人は、一人一人違う。
「親のように育った」とはいえ、「親と同じ」にはなれません。そもそも、生きている環境も違う。遺伝子も違う。その子にはその子にあった、たった一つの生き方が備わっている。
生まれ持った、備わったものがどんどん開発されていくこと。そのことを人は「解放」と呼ぶのではないでしょうか?
備わったものが、倉庫に仕舞われたまま出番が来ず、腐っていくのではなく、次々に注文が来て、他の人の人生に貢献できている。そうであれば、人はしあわせを感じる。
自分は、「探す」のではなく、「思い出す」もの。あるいは、自分の中に「見つける」もの。
その人にとっての「本物」は、その人にしかわかりません。
振り返って、ああ、あの人と出会えて本当によかった、と心から思えて、今でも連絡を取ることができる人、その人たちが私にとって本物の人たち。
だって、私の一部になっているのだから。
いくつかの本当に大切な本が、私の一部になっているように。
そんな数少ない、でも確かな「本物体験」が、私を支える自信になっている。
その人と会うのが楽しいのかどうか。その人と会うと肩に力が入るのか抜けるのか。時間が経つのを忘れるか長いと感じるか。
人に防御は必要です。が、防御を固めれば固めるほど、身動きは取れなくなっていきます。
今、あなたの周りに、話しやすそうな人はいませんか?
その人を、あなたは、「感じ取る」ことができるはずです。
先日も、大手出版社の若手の営業さんが、「つい」、私にグチをこぼしていかれました。グチという名の、言いたいけれど言えなかった「本音」たちです。
私は、そんな本音が好きなのかもしれない。好きだからこそ、「つい」聴いてしまう。拾ってしまう。
そうやって集まった本音たちが、いつしか壮大な物語を建てるための柱やねじの一つ一つになっていくのかもしれません。
私も、私の近くにいた「話しやすそうな人」に本音を話すことから、やっと自分の人生は始まった。
まさに物語ることが始まった。
物語が、人に必要なわけです。
だから本当の物語も、人を解放せずにはいられないはずなのです。
長くなりました。少しは伝わったでしょうか?
フォロワーが一万人いるからといって、国営テレビが放送しているからといって、その人の発言や表現が「本物」かどうかの保証にはならない。数の暴力に流されないでください。
人は流されるものだし、勘違いするものです。だからこそ、「感じ取る」能力も持ち合わせている。「なんか、くさいぞ」と。
もし、「くささ」も感じ取れなくなっているとすれば、その人は成長することも無くなってしまった人。
成長は、目標との「ずれ」を埋めようと必死になるから達成できる。目標という「言葉」に、中身がどれほど追いついているか。その「言葉」に、どれほどの真実が詰まっているか。
だから、偽物は成長しない、とも言える。逆説的だけど、偽物は変わらない、とも言える。変わらないことで、時代に取り残されて、消えてゆく。成長の過程の中で、不要物となって捨てられていく。
本物は、解放する。
私は、いつも書くことで、解放されてきました。
解放されるとは、ときはなして自由になること。
そして、自由とは、自分が理由になること、です。
自分が、この人生の主人公になる! ということです。
写真は、矢車菊。
古代エジプトで、魔除けの花として可愛がられていました。
それは、「本物は解放する」ということ。
これが「使える知識」なのかは、よくわかりませんが、私が体験から学んだ「結晶化した知恵」のようなものです。
特に、人間関係において、腑に落ちることが多いと思います。
そもそも、何が「本物」なのでしょうか?
揺るがない、たった一つである、にせ物や見かけばかりの物ではないこと、その名に値する。
例えば、「先生」、それに「友人」。本物は、その名に値する。
ニセモノではなくホンモノであるから、持続する。持続可能性ということも、本物の条件に入っていると思います。
本物は、真、真実でもあります。
心で、体で、その人の存在そのものが、そのようになろうとしている真。
「ああしろ」とか「こうしろ」とか「こうした方がいい」とか「はやく!」とか、あるいは「ばか」とか、ではなく。
要するに言葉だけじゃない。どんな服を着ていても、マスクをしていても、あるいはメイクをしていても、人間だからこそ「感じ取って」しまうもの。
お酒の力を借りないと、「腹を割って話す」ことが難しい人がいます。
お酒を飲んで、体を痛めてまで、その人は何をしようとしているのでしょうか。
「解放」されたいのではないでしょうか?
何から解放されたい?
自分でもよくわからない、息苦しさから。生きにくさから。あるいは慢性的な疲労、寝不足、イライラ、不安。
真、いのちとしての自分の現在の状態と、会社や仕事でつきあう人間関係や家族関係の中での自分との「ずれ」。
そんな誰にでもあるけど、人によってものすごく大きくなってしまうこともある「ずれ」を、話し合うことができれば、そのずれを修正していくことが生きる希望になる。逆に、「ずれ」が、その人と会うことによって広がってしまうなら、その関係は偽物ということ。それが本当の親子であったとしても。
ただ、偽物と分かっていても、付き合う必要のある関係もある。仕事の上司とか、同僚とか、クラスメートとか、学校の先生とか、ママ友とか、親子も。でも、自分が満たされることのない関係ばかりでは、息苦しくなって当然ですね。
生まれた子は、その親を「人間の見本」として、「人間の真の姿」として真似をして育ちます。
いつの間にか言葉を覚えてしまったように。その人の喋ることや喋り方も、「感じ取って」学習して身につけるもの。
でも、人は、一人一人違う。
「親のように育った」とはいえ、「親と同じ」にはなれません。そもそも、生きている環境も違う。遺伝子も違う。その子にはその子にあった、たった一つの生き方が備わっている。
生まれ持った、備わったものがどんどん開発されていくこと。そのことを人は「解放」と呼ぶのではないでしょうか?
備わったものが、倉庫に仕舞われたまま出番が来ず、腐っていくのではなく、次々に注文が来て、他の人の人生に貢献できている。そうであれば、人はしあわせを感じる。
自分は、「探す」のではなく、「思い出す」もの。あるいは、自分の中に「見つける」もの。
その人にとっての「本物」は、その人にしかわかりません。
振り返って、ああ、あの人と出会えて本当によかった、と心から思えて、今でも連絡を取ることができる人、その人たちが私にとって本物の人たち。
だって、私の一部になっているのだから。
いくつかの本当に大切な本が、私の一部になっているように。
そんな数少ない、でも確かな「本物体験」が、私を支える自信になっている。
その人と会うのが楽しいのかどうか。その人と会うと肩に力が入るのか抜けるのか。時間が経つのを忘れるか長いと感じるか。
人に防御は必要です。が、防御を固めれば固めるほど、身動きは取れなくなっていきます。
今、あなたの周りに、話しやすそうな人はいませんか?
その人を、あなたは、「感じ取る」ことができるはずです。
先日も、大手出版社の若手の営業さんが、「つい」、私にグチをこぼしていかれました。グチという名の、言いたいけれど言えなかった「本音」たちです。
私は、そんな本音が好きなのかもしれない。好きだからこそ、「つい」聴いてしまう。拾ってしまう。
そうやって集まった本音たちが、いつしか壮大な物語を建てるための柱やねじの一つ一つになっていくのかもしれません。
私も、私の近くにいた「話しやすそうな人」に本音を話すことから、やっと自分の人生は始まった。
まさに物語ることが始まった。
物語が、人に必要なわけです。
だから本当の物語も、人を解放せずにはいられないはずなのです。
長くなりました。少しは伝わったでしょうか?
フォロワーが一万人いるからといって、国営テレビが放送しているからといって、その人の発言や表現が「本物」かどうかの保証にはならない。数の暴力に流されないでください。
人は流されるものだし、勘違いするものです。だからこそ、「感じ取る」能力も持ち合わせている。「なんか、くさいぞ」と。
もし、「くささ」も感じ取れなくなっているとすれば、その人は成長することも無くなってしまった人。
成長は、目標との「ずれ」を埋めようと必死になるから達成できる。目標という「言葉」に、中身がどれほど追いついているか。その「言葉」に、どれほどの真実が詰まっているか。
だから、偽物は成長しない、とも言える。逆説的だけど、偽物は変わらない、とも言える。変わらないことで、時代に取り残されて、消えてゆく。成長の過程の中で、不要物となって捨てられていく。
本物は、解放する。
私は、いつも書くことで、解放されてきました。
解放されるとは、ときはなして自由になること。
そして、自由とは、自分が理由になること、です。
自分が、この人生の主人公になる! ということです。
写真は、矢車菊。
古代エジプトで、魔除けの花として可愛がられていました。
私はこれを読んですぐピン!ときて、私ならきっと「真実は人を自由にする」だなあ、なんて思ってました。
言葉としての表現は多少違ってはいるのですが、言いたいことはほぼほぼ、一緒でしょう。
一時期、沖縄のOさんと何かあるたび、「真実は人を自由にする」だよねえなんて言ってたので、菊田さんの「本物は解放する」を読んだ時、
私たち三人はやっぱし同じ飯を食った仲間なんだと、思わずにはいられませんでした。
それを伝えたくてのコメントです。
あしからず
もう一度読み直したら、「真実」とか「自由」とか言ってましたね。私の言いたいことは「真実は人を自由にする」とほぼ同じだと思います。
少しの違いがあるとすれば、私が意図した「本物」と「解放」は、人だけを対象に限定してないことでしょうか。「本物」は芸術作品とか技術とか商品にも当てはまるし、「解放」されるのは人だけでなく、環境だったり動物だったりもします。
「同じ釜の飯」ほんとそうですね。
書くとき、読むときの拠り所になっている感じがします。