「使える知識」の3回目は「欲求の階層」について。
「欲求」と一口に言っても様々な欲が人にはあります。
そこには、満たしていく順番があるよねと指摘したのがアメリカの心理学者マズローでした。1943年に発表したと言われてます。
欲求の一番下にあるのが基本的欲求で、生理的欲求。食事、排泄、睡眠、暑さ寒さの調整、喉の渇き、傷害の回避など。
次は、安全の欲求。住む場所や危害のない人間関係の確保など。
次は、所属欲求。孤立していないということ。
次は、愛情欲求。親の立場の人たちや友人知人たち周りの人たちから愛されているか、大事にされているか。
次は、尊敬の欲求。これは他者からの評価だけでなく、自尊心の有無にも左右されます。
最後が自己実現の欲求。自分自身になっていくこと。やりたい職業に就くための努力や、仕事がうまくいくようになっても継続発展させる力となる。
マズローは、晩年に、もう一つあると言ったそうです。自己実現の先に。それは自己超越の欲求。自己すら超えていきたい。夏目漱石の「則天去私」の心境でしょうか。
以上の欲求の順序は、心理的発達具合と比例します。よく発達すればするほど、基本的欲求からは離れ、自己実現の度合いが右肩上がりに上がっていく。
で、興味深いのは、そもそも人は何によってよく発達するのか、という問題が、基本的な欲求から順々に心理的欲求を満たしていくと、さらに社会的によく活躍する人は生まれるという解答で解消されること。そのための政策なりサービスなりがより普遍的に提供されればよりよい社会もできる。
なのですが、実際にはそううまくいっていないように見えます。特に日本に住む私たちは、他の国に比べて幸福度がとても低いですから。欲求階層説によれば、自己実現を果たせば果たすほど、人生の充実度も幸福度も上がるとされています。
何が足りないのか? 改めて欲求の階層を眺めてみます。
私にも思い当たるのですが、この国の文化度では、一つ目と二つ目の生理的欲求と安全欲求はほぼ満たされると言えるかもしれませんが、そこから上がなかなか厳しい。
三つ目の所属の欲求。学校のクラスで、仲間はずれになれたら(ハブられたら)、あっという間にダメになってしまいます。それはもはや個人の責任などではなく、人はそうできているから。ヤングケアラーの存在。親に守ってもらう立場なのに、親を世話しなければならず、勉強する時間も友達と遊ぶ時間も体力も削られて、孤立に追い込まれてしまう。
孤立しなかったとしても四つ目の愛情は満たされているでしょうか。大事にされているか。ケアし、ケアされるお互い様の関係ができているか。
人は愛情だけでも足りない。尊敬される必要もあります。ここに個性の目覚めもあるのかもしれない。尊敬は、たった一つの存在の価値を認めることだから。「たった一つの存在」でありつつ、「孤立していない」。私にはこれが分かりませんでした。
「作家になりたい」という自己実現の欲は大学生時代からありました。そこで学生寮も飛び出して一人暮らしをし、さらにバイトまで辞めてしまって勝手に缶詰状態。ほんの少しは書けましたが、あっという間に所属や愛情の欲求は枯渇していった。これはまずいぞと気付きつつ、干からびるままで何もできなかった。金欠にもなってくるし、眠れなくもなるし食欲までなくなる。一番下の欲求まで損なわれていった。挙句が鬱病の発症で、「死にたい」という思いにつながっていった。
その後はまずガッチリと担当の精神科医と信頼関係を作ることが大事でした。まさに命綱。そこを頼りにして、両親との関係の再構築と学校の先生との対話が重要でした。途絶えがちだった友人との交流も再開し、大事になっていた喫茶店での時間やマスターとの何気ないやりとりも必須だった。どうしてもっと自分の欲求に忠実じゃなかったんだろうと、今は思います。そんなものなのかもしれませんが。
立ち直るまで、ずいぶんと苦しい夢も見ていました。よく覚えているのが、高い塔の最上階にいて、巨大地震が来た時のように左右にぐわんぐわん揺れて投げ出されそうになる夢と、走っているのに、もっと早く走れそうなのに、ぜんぜん足が自分の思い通りに動かず、スローモーションにしかならない夢。
高い塔の夢は、よくこの欲求の階層を表していると思う。自己実現を重視するばかりに、そこに至るまでの基本的で心理的な欲求をいかに軽視し、満たしてこなかったか。土台がしっかりしていなかったら、どんな塔だってすぐに崩れ落ちる。走りたいのに走れないというのも、今となってみればよーくわかる。当時は、走りたいなんて思ってもいなかったけど。ランナーの本能は当時からあった。
所属、愛情、そして尊敬。この土台にある基本的生理的欲求と安全。美味しいものを食べ、十分に休み、眠り、安全が確保された場所で住み働く。仲間たちと協力して支えあって、大事にし合って尊敬し合って。この十分な経験の蓄えがあって、初めて自己実現は叶えられていく。この事実を言いたかった。
大学の先生が言った「着実に一歩ずつ」の意味。それはただ勉強をしろよと言う意味だけじゃなかった。どれもおろそかにはできないということ。
ある人を軽蔑したとすれば、その軽蔑は鏡のように自分に跳ね返ってきて、自分の尊敬を削り取るでしょう。尊敬されるだけじゃなく、自分が自分をリスペクトするという自尊の気持ちの発達がミソかもしれません。自尊心の発達も、以上で述べてきたように、そこだけ伸ばそうとフォーカスしても無理ということです。自尊に至るまでの確かな道程がいる。しっかり食べて休んで、安全な人間関係を作り、その中で居場所を得て、愛し愛される十分な体験を積んでやっと自分が自分を認め、思いやる心が育まれる。この私がそうでしたから。
「欲求」と一口に言っても様々な欲が人にはあります。
そこには、満たしていく順番があるよねと指摘したのがアメリカの心理学者マズローでした。1943年に発表したと言われてます。
欲求の一番下にあるのが基本的欲求で、生理的欲求。食事、排泄、睡眠、暑さ寒さの調整、喉の渇き、傷害の回避など。
次は、安全の欲求。住む場所や危害のない人間関係の確保など。
次は、所属欲求。孤立していないということ。
次は、愛情欲求。親の立場の人たちや友人知人たち周りの人たちから愛されているか、大事にされているか。
次は、尊敬の欲求。これは他者からの評価だけでなく、自尊心の有無にも左右されます。
最後が自己実現の欲求。自分自身になっていくこと。やりたい職業に就くための努力や、仕事がうまくいくようになっても継続発展させる力となる。
マズローは、晩年に、もう一つあると言ったそうです。自己実現の先に。それは自己超越の欲求。自己すら超えていきたい。夏目漱石の「則天去私」の心境でしょうか。
以上の欲求の順序は、心理的発達具合と比例します。よく発達すればするほど、基本的欲求からは離れ、自己実現の度合いが右肩上がりに上がっていく。
で、興味深いのは、そもそも人は何によってよく発達するのか、という問題が、基本的な欲求から順々に心理的欲求を満たしていくと、さらに社会的によく活躍する人は生まれるという解答で解消されること。そのための政策なりサービスなりがより普遍的に提供されればよりよい社会もできる。
なのですが、実際にはそううまくいっていないように見えます。特に日本に住む私たちは、他の国に比べて幸福度がとても低いですから。欲求階層説によれば、自己実現を果たせば果たすほど、人生の充実度も幸福度も上がるとされています。
何が足りないのか? 改めて欲求の階層を眺めてみます。
私にも思い当たるのですが、この国の文化度では、一つ目と二つ目の生理的欲求と安全欲求はほぼ満たされると言えるかもしれませんが、そこから上がなかなか厳しい。
三つ目の所属の欲求。学校のクラスで、仲間はずれになれたら(ハブられたら)、あっという間にダメになってしまいます。それはもはや個人の責任などではなく、人はそうできているから。ヤングケアラーの存在。親に守ってもらう立場なのに、親を世話しなければならず、勉強する時間も友達と遊ぶ時間も体力も削られて、孤立に追い込まれてしまう。
孤立しなかったとしても四つ目の愛情は満たされているでしょうか。大事にされているか。ケアし、ケアされるお互い様の関係ができているか。
人は愛情だけでも足りない。尊敬される必要もあります。ここに個性の目覚めもあるのかもしれない。尊敬は、たった一つの存在の価値を認めることだから。「たった一つの存在」でありつつ、「孤立していない」。私にはこれが分かりませんでした。
「作家になりたい」という自己実現の欲は大学生時代からありました。そこで学生寮も飛び出して一人暮らしをし、さらにバイトまで辞めてしまって勝手に缶詰状態。ほんの少しは書けましたが、あっという間に所属や愛情の欲求は枯渇していった。これはまずいぞと気付きつつ、干からびるままで何もできなかった。金欠にもなってくるし、眠れなくもなるし食欲までなくなる。一番下の欲求まで損なわれていった。挙句が鬱病の発症で、「死にたい」という思いにつながっていった。
その後はまずガッチリと担当の精神科医と信頼関係を作ることが大事でした。まさに命綱。そこを頼りにして、両親との関係の再構築と学校の先生との対話が重要でした。途絶えがちだった友人との交流も再開し、大事になっていた喫茶店での時間やマスターとの何気ないやりとりも必須だった。どうしてもっと自分の欲求に忠実じゃなかったんだろうと、今は思います。そんなものなのかもしれませんが。
立ち直るまで、ずいぶんと苦しい夢も見ていました。よく覚えているのが、高い塔の最上階にいて、巨大地震が来た時のように左右にぐわんぐわん揺れて投げ出されそうになる夢と、走っているのに、もっと早く走れそうなのに、ぜんぜん足が自分の思い通りに動かず、スローモーションにしかならない夢。
高い塔の夢は、よくこの欲求の階層を表していると思う。自己実現を重視するばかりに、そこに至るまでの基本的で心理的な欲求をいかに軽視し、満たしてこなかったか。土台がしっかりしていなかったら、どんな塔だってすぐに崩れ落ちる。走りたいのに走れないというのも、今となってみればよーくわかる。当時は、走りたいなんて思ってもいなかったけど。ランナーの本能は当時からあった。
所属、愛情、そして尊敬。この土台にある基本的生理的欲求と安全。美味しいものを食べ、十分に休み、眠り、安全が確保された場所で住み働く。仲間たちと協力して支えあって、大事にし合って尊敬し合って。この十分な経験の蓄えがあって、初めて自己実現は叶えられていく。この事実を言いたかった。
大学の先生が言った「着実に一歩ずつ」の意味。それはただ勉強をしろよと言う意味だけじゃなかった。どれもおろそかにはできないということ。
ある人を軽蔑したとすれば、その軽蔑は鏡のように自分に跳ね返ってきて、自分の尊敬を削り取るでしょう。尊敬されるだけじゃなく、自分が自分をリスペクトするという自尊の気持ちの発達がミソかもしれません。自尊心の発達も、以上で述べてきたように、そこだけ伸ばそうとフォーカスしても無理ということです。自尊に至るまでの確かな道程がいる。しっかり食べて休んで、安全な人間関係を作り、その中で居場所を得て、愛し愛される十分な体験を積んでやっと自分が自分を認め、思いやる心が育まれる。この私がそうでしたから。
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