新しいカテゴリーを作ることにしました。
「使える知識」です。
私が文化人なのか知識人なのかわかりませんが、人生も折り返しを迎え(もう45歳です)、生涯学習なのはわかってますが、私が身につけてきた「これは使える!」と自信を持っておすすめできる知識をお伝えしたいと思うようになりました。自分だけ良ければ良い、のではないから。何を残していけるのか、どれだけ伝えることができるのか、わかりませんが、むくむくと自ずと湧き上がってきた思いなのでやってみることにします。
私の中では「小説」がとても大事で、日々こつこつと成長させてもいるのですが、それはそれとして。
写真は写真で大事で続けていますが、主にインスタグラムに載せることが多くなりました。そこから持ってきたのは萩。萩は、母校の東北大学のシンボルでもありました。
前置きはそれくらいにして、「誤った一般化」について。
これは「早まった一般化」とも言われます。
そもそも「一般化」とはどういうことでしょう?
ある特徴や物事が広く行き渡ること。
就職活動をする際にスーツを着ることは一般化している、と言えます。が、これは日本だけのことです。他の国がどうなのかは調べないとわからない。なのにその過程を飛ばして、全ての国において就職活動をする際にスーツを着ることは一般化している、と言ってしまったら「誤った一般化」になります。「本当にそうなのか」を確かめずに一つの事柄を他の地域や人にも当てはめてしまうこと。
全ての鳥は飛べる。これも誤った(早まった)一般化の例。ペンギンは飛べますか? ダチョウは?
特に人に当てはめた場合、問題は起きる。
ロシアは悪い国だ。と誰かが言う。でも、本当にそうなのでしょうか?
確かに、平和に暮らしている隣国に押し入り、人を殺して生活を破壊し略奪している。違法であり、許されないことです。
が、ロシアが行なっている、ということになっているけど、実際に行なっているのは、プーチン大統領の指揮に従う一部の人々。そこにはもはやロシア人だけでなく、他国から雇われた傭兵もいる。何も知らされずに派遣された軍人が、自らの判断で戦争に反対し、持ち場を放棄した人もいる。ロシア人皆が人を人とも思えない悪人だというわけではありません。
「誤った一般化」がなぜ問題かと言えば、要するに個々の真実が覆い隠されてしまうから。本当にその真実が他の事例や生命にも当てはまるのかは、本来慎重に検討しなければわからないはず。そこをはしょったら、「偽造」でしかありません。偽造を真実だと思い込んだら、次には「誤った信念」に固定化される危険もあります。
言葉は慎重に扱わなければならない。と僕は思ってますが、みんながそう思っているわけではありません。僕は哲学科を出て、カウンセリングも体験し、詩や小説に救われてきた人間ですから、人一倍言葉に敏感だと言える。だからこそ、「一般化しつつある過ち」を看過できない。
幸不幸は、その人が体験している現実と、その人が表す言葉(言葉にできない子供なら行動)との一致度に比例します。一致度が高ければ幸せで低ければ不幸せです。
人は、言葉より体験や感情の方が真実として伝わります。
「愛してるよ」と言う母から恐怖しか感じないという子供の体験は実際にあります。そんな体験は不幸しか作りません。
「ふつうは〇〇」という言い方も要注意ですね。私が嫌いな言葉の一つでもあります。大概こういうとき、目の前のことは否定され、「ふつう」ではないことをなじっている。
「ふつう」ならば安心なのでしょうか。「ふつう」が正解なのでしょうか? 「ふつう」=「一般化」とも言えそう。
「ふつうに〇〇」とも聞くようになりました。「ふつうにおいしい」とか。は? と思いますが、要するに、目の前のことも「ふつう」に入ると判断されたようで。僕は何かゾッとします。判断の基準が「私」ではなく「ふつう」に乗っ取られている感じがするから。
大多数の人たちがいる方に入っていると安心だ。この心理が一般化して、この大多数の人たちがそう言うんだから正解だ、と錯覚する。
「一般化」自体を止めることはできません。それは物事を迅速にとらえるために必要な方法だから。学習の転化でもあって、過去の事例から現在の現象を理解するための枠組みとなっている。それでうまくいったことも多々あるのでしょう。だから人の無意識に備えられた本能(パターン化本能)とも言えます。
でも、「誤った一般化」は防がないといけない。なぜなら、個体の特徴や生を奪い、人々に不幸を撒き散らすことにつながるから。
「誤った一般化」を防ぐためには、「一般化」することができない事象を挙げればいい。さっきのペンギンとかダチョウとか。
その目的の中に、詩や小説といった文芸の仕事も入ってくるわけです。
「誤った一般化」は「早まった一般化」でもあります。「誤る」ことは「早まる」こと。効率やスピードが重視されるばかりに、「早まった一般化」が大量生産されている可能性もあります。人の情報処理や作業効率には限界がある。人の現実をできるだけ正確に理解し、それに合った仕組みや言葉を作ることが、結果的にその人や組織の能力を最大限に引き上げることに通じ、利益も自ずと上がる。
自分の間やリズムや習慣(ルーティーン)を身につけて日々生活すること。自分は「ふつう」ではなく、たった一人の個性ある自分なのですから。
立ち止まってみる価値もあると思います。行きたくないところには行かない、という決断も。
「良い子」「良い嫁」「良い社員」、そんなの全部「誤った一般化」。辛くて苦しくて当たり前。だって自分じゃない存在を演じないといけないので。辛さや苦しさは、意識を向けて欲しいからこそ訴えている。今の言葉の体制では不十分だから人は話したくなる。話して話して話し尽くして、子供なら遊んで遊んで遊び倒して、ふっと新しい言葉や態度が心身の内側にやって来る。気兼ねなく、自由に、話して話して話し尽くし、遊んで遊んで遊び倒す、場所と相手はあるでしょうか? いざというとき、頼りになる人がいて逃げ込む場所もある、という確証は、人が十分に機能する上でとても大事なことです。「誤った一般化」の呪縛から解放されるためにも。
どうでしょうか?
「誤った一般化」
書き手である私こそが、一番に気をつけないといけないことでもあります。だからこそ、「使える知識」の一番目に来たのだと、ここまで書いて気づきました。
初めての試みなのでうまく伝わっていないかもしれません。
何か気づいたこと、おっしゃりたいことが出てきたら、遠慮なくコメントしてください。
「使える知識」です。
私が文化人なのか知識人なのかわかりませんが、人生も折り返しを迎え(もう45歳です)、生涯学習なのはわかってますが、私が身につけてきた「これは使える!」と自信を持っておすすめできる知識をお伝えしたいと思うようになりました。自分だけ良ければ良い、のではないから。何を残していけるのか、どれだけ伝えることができるのか、わかりませんが、むくむくと自ずと湧き上がってきた思いなのでやってみることにします。
私の中では「小説」がとても大事で、日々こつこつと成長させてもいるのですが、それはそれとして。
写真は写真で大事で続けていますが、主にインスタグラムに載せることが多くなりました。そこから持ってきたのは萩。萩は、母校の東北大学のシンボルでもありました。
前置きはそれくらいにして、「誤った一般化」について。
これは「早まった一般化」とも言われます。
そもそも「一般化」とはどういうことでしょう?
ある特徴や物事が広く行き渡ること。
就職活動をする際にスーツを着ることは一般化している、と言えます。が、これは日本だけのことです。他の国がどうなのかは調べないとわからない。なのにその過程を飛ばして、全ての国において就職活動をする際にスーツを着ることは一般化している、と言ってしまったら「誤った一般化」になります。「本当にそうなのか」を確かめずに一つの事柄を他の地域や人にも当てはめてしまうこと。
全ての鳥は飛べる。これも誤った(早まった)一般化の例。ペンギンは飛べますか? ダチョウは?
特に人に当てはめた場合、問題は起きる。
ロシアは悪い国だ。と誰かが言う。でも、本当にそうなのでしょうか?
確かに、平和に暮らしている隣国に押し入り、人を殺して生活を破壊し略奪している。違法であり、許されないことです。
が、ロシアが行なっている、ということになっているけど、実際に行なっているのは、プーチン大統領の指揮に従う一部の人々。そこにはもはやロシア人だけでなく、他国から雇われた傭兵もいる。何も知らされずに派遣された軍人が、自らの判断で戦争に反対し、持ち場を放棄した人もいる。ロシア人皆が人を人とも思えない悪人だというわけではありません。
「誤った一般化」がなぜ問題かと言えば、要するに個々の真実が覆い隠されてしまうから。本当にその真実が他の事例や生命にも当てはまるのかは、本来慎重に検討しなければわからないはず。そこをはしょったら、「偽造」でしかありません。偽造を真実だと思い込んだら、次には「誤った信念」に固定化される危険もあります。
言葉は慎重に扱わなければならない。と僕は思ってますが、みんながそう思っているわけではありません。僕は哲学科を出て、カウンセリングも体験し、詩や小説に救われてきた人間ですから、人一倍言葉に敏感だと言える。だからこそ、「一般化しつつある過ち」を看過できない。
幸不幸は、その人が体験している現実と、その人が表す言葉(言葉にできない子供なら行動)との一致度に比例します。一致度が高ければ幸せで低ければ不幸せです。
人は、言葉より体験や感情の方が真実として伝わります。
「愛してるよ」と言う母から恐怖しか感じないという子供の体験は実際にあります。そんな体験は不幸しか作りません。
「ふつうは〇〇」という言い方も要注意ですね。私が嫌いな言葉の一つでもあります。大概こういうとき、目の前のことは否定され、「ふつう」ではないことをなじっている。
「ふつう」ならば安心なのでしょうか。「ふつう」が正解なのでしょうか? 「ふつう」=「一般化」とも言えそう。
「ふつうに〇〇」とも聞くようになりました。「ふつうにおいしい」とか。は? と思いますが、要するに、目の前のことも「ふつう」に入ると判断されたようで。僕は何かゾッとします。判断の基準が「私」ではなく「ふつう」に乗っ取られている感じがするから。
大多数の人たちがいる方に入っていると安心だ。この心理が一般化して、この大多数の人たちがそう言うんだから正解だ、と錯覚する。
「一般化」自体を止めることはできません。それは物事を迅速にとらえるために必要な方法だから。学習の転化でもあって、過去の事例から現在の現象を理解するための枠組みとなっている。それでうまくいったことも多々あるのでしょう。だから人の無意識に備えられた本能(パターン化本能)とも言えます。
でも、「誤った一般化」は防がないといけない。なぜなら、個体の特徴や生を奪い、人々に不幸を撒き散らすことにつながるから。
「誤った一般化」を防ぐためには、「一般化」することができない事象を挙げればいい。さっきのペンギンとかダチョウとか。
その目的の中に、詩や小説といった文芸の仕事も入ってくるわけです。
「誤った一般化」は「早まった一般化」でもあります。「誤る」ことは「早まる」こと。効率やスピードが重視されるばかりに、「早まった一般化」が大量生産されている可能性もあります。人の情報処理や作業効率には限界がある。人の現実をできるだけ正確に理解し、それに合った仕組みや言葉を作ることが、結果的にその人や組織の能力を最大限に引き上げることに通じ、利益も自ずと上がる。
自分の間やリズムや習慣(ルーティーン)を身につけて日々生活すること。自分は「ふつう」ではなく、たった一人の個性ある自分なのですから。
立ち止まってみる価値もあると思います。行きたくないところには行かない、という決断も。
「良い子」「良い嫁」「良い社員」、そんなの全部「誤った一般化」。辛くて苦しくて当たり前。だって自分じゃない存在を演じないといけないので。辛さや苦しさは、意識を向けて欲しいからこそ訴えている。今の言葉の体制では不十分だから人は話したくなる。話して話して話し尽くして、子供なら遊んで遊んで遊び倒して、ふっと新しい言葉や態度が心身の内側にやって来る。気兼ねなく、自由に、話して話して話し尽くし、遊んで遊んで遊び倒す、場所と相手はあるでしょうか? いざというとき、頼りになる人がいて逃げ込む場所もある、という確証は、人が十分に機能する上でとても大事なことです。「誤った一般化」の呪縛から解放されるためにも。
どうでしょうか?
「誤った一般化」
書き手である私こそが、一番に気をつけないといけないことでもあります。だからこそ、「使える知識」の一番目に来たのだと、ここまで書いて気づきました。
初めての試みなのでうまく伝わっていないかもしれません。
何か気づいたこと、おっしゃりたいことが出てきたら、遠慮なくコメントしてください。
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