泉を聴く

徹底的に、個性にこだわります。銘々の個が、普遍に至ることを信じて。

感情の転移 大切な人とのこと

2022-12-11 16:46:43 | 使える知識

 11月の29日でした。疲れを取りにお気に入りのスーパー銭湯に行っていたのですが、風呂から出るとケータイに何度も父から連絡が入っていました。
 不安しかよぎりません。で、電話してみれば、母がコロナ陽性になったとのこと。
 ついに。家にも。
 ショックでした。
 その風呂場から母の通っているクリニックは近いので歩いて行き、すぐ抗原検査を受けました。
 父と私は陰性。母の入院もできる病院はあるとのことでしたが、場所が遠いのと、症状は軽かったので、自宅療養となりました。
 それからの1週間は、長く、重く、緊張の連続でした。
 父と私で家事を分担し、隔離している母の部屋に食事を運ぶ。用心深くマスクして、消毒をして。
 いつも作ってもらっている手料理を、今度は私たちがした。洗濯も、自分のものは自分で。
 市や田舎からの支援物資にも助けられました。
 母は透析患者なので重症化リスクがあり、一番恐れていることが起きてしまったのでした。
「死ぬかも」と思ったのは二度目。
 一度目は、慢性腎臓病のために食事療法で透析をしないで済むように頑張っていた母がおかしくなったとき。
 意識が混濁し、自力で歩けなくなった。かかりつけ医に電話して透析が必要だからと受け入れ可能な病院を紹介してもらって、父と二人で運びました。
 後で知ったことですが、そのときの母の症状は「尿毒症」でした。腎臓で取り除くことのできなかった毒素が体を巡って頭まで入ってしまった。
 最悪のときは、もちろん会話もできず、目は開いているのに痙攣したり、舌を出したりと、見ていられなかった。暴れるので拘束までされて。
 でも、透析を繰り返すたびに意識を取り戻していった。「意識」の大切さを知らされたのも母を通してでした。
 で、二度目。
 コロナ感染を知らされた夜はろくに眠れなかった。心配してしまって。
 母とメールのやりとりをいくつかしましたが、「すまない」「申し訳ない」「迷惑かけてごめん」ばかりで、余計に気が滅入る。母の「すまない気持ち」は十分すぎるほどに伝わってきていました。
 で、思った。私は散々母に迷惑をかけてきた。その様々な体験が蘇った。だから伝えた。「私も迷惑をかけてきたから、お互い様です。今度は私たちを頼ってください」と。涙も出た。それで緊張はほぐれた。
 1週間たち、症状も治まり、再度の検査でウィルスの減少も確かめられ、主治医にも「もういいんじゃない」と言われ、その言い方の曖昧さに不安を拭えなかった母に、マラソン大会のために取っておいた抗原検査キットを使って、後日私がもう一度検査しました。そして綺麗に陰性でした。晴れて解除。
 この一連の体験を通じて、改めて私にとって、母は大切な人なのだと実感させられました。
 そして、大切にすることもできました。食事の世話だけでなく、母がいつも大切にしていた花瓶の花の存在にも気づき、枯れていたものを私が買った花と入れ替えもして。私が買った花の中には、おそらく初めてのカーネーションが入っていました。
 前置きが長くなりました。
「感情の転移」とは、私にとっての母のように、大切な人との感情を、他の人に置き換えることを言います。心理療法で必ずと言っていいほど起きる現象で、これを克服できるかがかなり重要なテーマになります。
 この「感情の転移」は、しょっちゅう起きています。が、気づきません。無意識なので。というか、意識できたら、もう「転移」ではないでしょう。
 なぜ気づかないのか? 気づかないようにしているからです。私もそうでした。母が大切って、マザコンかよ。私に限って、そんなの関係ない、と。むしろ積極的に否定していました。
 じゃあ、どうして気づいたのか?
 私が思いを寄せた女性たちと、ことごとくうまくいかなかったから。似たようなあらすじをなぞることが何度もあった。その人は、私を恋愛対象と見ていなかったり、すでに異性の相棒がいたり。
 具体的な話をすると、その人が誰なのかわかってしまうのでぼかしますが、そんな「感情の転移」の破れを体験させてくれた最後の女性がいました。その人のあるところに、母とまったく同じ場所に同じような小さな「いぼ」があったのです。それを見て、私は「この人に違いない」と思い込んだ。しかし、それこそが、私が女性に「母に代わる存在」を見ていた証拠でした。その人は、程なく結婚することを知りました。もちろん、私とではありません。そのときの感情の乱れをなんと言っていいのか。つらくて、自分の未熟さがふがいなくて、恥ずかしくて、自分から「さよなら」を伝えて、その人への悪口をグッと堪えて、一人静かに涙した。
「分離不安」もあったのでしょう。大切な人にとっての良い子を演じていれば、見捨てられることはないし、愛される。自分自身を頼る前に、良い子のメリットを身につけてしまうと(それもほとんど無意識で)、長い不幸の時代が続くことになります。ある程度信頼関係を作った女性と別れるとき、不安が高じることがよくありました。不安がもとで付き合ったとして、互いが幸せになれるはずもありません。
「感情の転移」は無意識で起きていて、意識が蓋をしている。どうしてなのかは、さっきも書きましたが、事実を認めたくないと否認しているから。認めることを恥であり、ありえないと意識しているから。認めることは、その人の在り方の変更が伴う。変更しないでもやってこれたから、人は今のままでいいんだとどこかで思っている。意識の体制に突破口を開けるのは大変なこと。でも、一度開いてみると、あーそういうことだったのね、なんか前より楽になった、という感じがします。
「感情の転移」が問題なのは、要するにその人をその人として見れなくなってしまうから。目の前の人の本当の姿を見ることができない。私とあなたとの間の、見せかけではない信頼を作ることができない。だって、他の人との感情がどうしても再現されてしまうから。適応するのが困難になってしまう。職場でうまくいかないとか、私のように恋愛関係が順調に進展しない(あるいは、確信犯的に、進展しないようにしていたのかもしれません)とか、ネット上の炎上とか、虐待の連鎖とか、陰謀論が力を持ってしまうわけ、とか、挙げれば切りがないほど「感情の転移」は起きています。
 このささやかなブログの中で、「使える知識」を新設し、伝えたかったことの一番かもしれません。この「感情の転移」のこと。
 たぶん、読んだだけではわからないと思います。仕方ないです。私も、知識として知っていても、実際腑に落ちたのはここ最近のことですから。
 ただ、知識として頭に残っていれば、どこかで、「あ、これ、転移かも」と気づくこともあるでしょう。「転移」が見えたらしめたもの。ずいぶんと人間関係は楽になります。だって、余計な感情に邪魔されずに済むのですから。その人が、その人として、見えてくるのですから。あなたも、私も、すっきりと、一人に。
 付け加えておきたいのは、「感情の転移」は解決されなければならないことではあるけれど、「感情の転移」が起きることによって守られている命があるということです。「転移」がある間は確かに不完全な状態かもしれない。だけど、人はそんなすぐに成熟するわけでもない。そこに至るまでの過程があるのであって、巡り合わせの順番や順序もある。失敗を重ねることで学んで、人を見る目も確かさを増すでしょう。内側から湧き上がる欲求の強さ、意欲の確かさも意識を変えるきっかけになります。
 出会いも助けになってくれます。出会いは、向こうから来ます。私に「感情の転移」を破らせてくれたその人との出会いには、感謝しかありません。
「感情の転移」という繭がほどけたとき、やっと希望が生まれるのかもしれません。
 それは、自分が起点になるということ。自分が作る。自分が作っていける。自分で生きていく。この、自分への揺るがない頼りがい。
 もう誰かの目を気にしなくてもいい。もう誰かの言葉に煽られなくてもいい。その清々しさ。
 その人との関係に、他の人との関係を重ねなくてもいいありがたさ。
 やっと、その人の在り方を、できる限りありのままに受け入れ、支え、愛することもできる、という希望。
 別れることを過度に恐れなくてもいい気楽さ。むしろ、離れるときこそ成長のチャンス。行きたいところにいくためには、ここから離れなくてはならない。それができる、かけがえのない自由。
 大切な人が、私を今まで守ってくれた。今度は私が、私の大切な人を守る。
 守られ、大切にされてきたからこそ、私にはもう守り、大切にする力は備えられている。
 備えができた。だからこそ破った。
 自分から大切な人たちに伝えていく。
 私は、もう、伝えることができる。その喜びを感じながら。

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