「ごん狐」が再び注目されるようになり、もう一度、まとめて新美南吉を読みたくなりました。
彼は、1943年、わずか29歳のとき、結核で亡くなっています。母親も、彼が幼少のとき亡くなり、自分も命は短いと悟っていたようです。すでに学生時代に喀血も経験していたようで。命と引き換えに、作品を残していった。
「ごん狐」は、18歳で発表。百姓の息子、兵十が捕らえた魚を、狐のごんはいたずらして川に放ってしまう。うなぎはごんの首に巻きつき、兵十に気づかれたごんは逃げる。その後、兵十の母が亡くなったことを知ったごんは、自分の犯した過ちに気づき、償いを始める。結末は、どうぞ読んでみてください。
その他の作品を読み通すと、「自分自身を欺くことの不可能性」といったテーマが通底しているように感じます。あるいは、自分が見ていた世界は、実は違っていたというような、思い違いに気づく場面の多さ。それは片田舎で育った南吉が、東京に出てきて華々しくデビューし、前途洋洋であったはずなのに病を得て、自分のすべきこと、できることを知らないわけにはいかなかった彼自身の物語が凝縮したようにも読めます。そしてそれは、普遍性を獲得している。
特に印象に残ったのは、「牛をつないだ椿の木」。海蔵さんは、人力曳き。よく人の通る道に、井戸があればなあと思う。牛使いの利助さんと奥の泉にまで水を飲みに行き、その間、道沿いの椿に牛をつなぎ、帰ってきたら牛が椿の葉を食べ尽くして、地主にこっぴどく叱られて。海蔵さんはいろんな人に相談するが誰も乗ってこない。地主にも反対され続ける。そこでも、自分自身が正直に人と向き合えたとき、相手の心も開く。井戸は、ついにできた。海蔵さんは、日露戦争に派遣され、戦死。でも、井戸は今でも行く人々の喉を潤し続けている。
これは、宮沢賢治の「よだかの星」を思い出させました。
仕事とは、そういうものだということ。南吉の作品もしかり。
「おじいさんのランプ」もまた名作。ランプ売りで役に立っていたが、電気が通うようになってランプは時代遅れになった。そのとき、ランプ売りだったおじいさんはどうしたか? 本屋に転身したのです。これからは、心を灯す本を売ろうと。ランプ売りの時代を進化させて。
最後に付されていた「童話における物語性の喪失」という評論も肯けた。それは1941年の早稲田大学新聞に載ったという。要は、原稿を依頼する側の条件が多過ぎて、本来自由である物語性を喪失させているというもの。また、物語は口で語られるものだという強調もその通りと思う。当時の時代状況を想像すると、大変に勇気ある発言だと感心します。
鮮やかで、優しくて、深く、透明。「童話」と括ってしまうのがもったいない。子供時代を忘れてしまった大人たちこそ読んで欲しい。フェイクニュースや印象操作や忖度の溢れるこの世の中で。
新美南吉 著/千葉俊二 編/岩波文庫/1996
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