泉を聴く

徹底的に、個性にこだわります。銘々の個が、普遍に至ることを信じて。

デミアン

2011-02-02 11:34:27 | 読書
 この本を初めて読んだのも学生時代、二十歳前後だったのだろう。どこがどうということではなく、強烈な印象だけがずっと残っていた。
 再読して、この物語はやはり苦しい自己への道なのだと思った。
 主人公のシンクレールは、少年時代、敬虔深い父に反発してスラム街にひそかに出入りするようになる。そこでのボス、ジャイアン的な存在がクローマー。彼のもとになぜか少年たちは引きつけられて、悪の権化ともいえるリーダーに認められることが反抗期の未成年にとって魅力あふれる体験だった。現在のチーマーや暴走族のように。ある日、悪事の告白大会のようなものが行われた。シンクレールもただ一心に認められたいがために、大嘘をつく。リンゴ畑からリンゴを盗んだのだと。悪賢いクローマーはリンゴ畑の主がリンゴ泥棒を捕まえるために賞金を懸けているのを知っていた。彼はシンクレール脅迫する。嘘であるリンゴ泥棒を両親にばらしてもいいのかと。身ぐるみを剥ぐように、執拗に迫る。シンクレールは真実を打ち明けることができず、うなされ、病に伏す。もう彼を殺すしかないと思い詰める。そこに、年上の転校生デミアンがやってくる。彼はシンクレールの心を見抜き、どうやったのかわからないが、二度とクローマーがシンクレールに近づかないようにしてしまう。以後、シンクレールとデミアンの交流は途切れることなく続いていく。
 不思議なデミアンとはいったい誰なのか? デーモン(悪魔)から名前は付けられている。それは言ってみればもう一人の自分。影。認めたくはないが認めざるを得ない抑圧してきた自分。
 シンクレールは青年になり、目的を見失った自暴自棄な生活を送る。酒と女に浸る。学校(おそらく大学にあたるもの)も退学寸前までいく。すれ違った美しい女性にベアトリーチェという名を付け、一方的に信仰する。美しいものを胸に抱き、悪魔を浄化しようと試みる。この時期、クナウエルという禁欲主義者とも出会う。彼は2年と1か月も禁欲している。「一段と精神的な道を進もうと思うものは、終始清浄でなければならない、絶対に!」(153ページ)しかし彼は苦しい。もう耐えられない。しかしやってしまえばもう豚だ。醜い。生きているかいがない。彼は死のうとする。呼び寄せられたようにシンクレールはかつてクローマーにかつあげされた場所に入っていくと、あわれなクナウエルはそこにいた。弱弱しくシンクレールに抱き崩れる。
 デミアンと離れていても、シンクレールは彼を思わずにいなれなかった。夢に出てくる人を描くようになった。それはデミアンに似ていた。夢の鳥も出てきて、描いたものをデミアンに送る。返事はこうだった。「鳥は卵の中からぬけ出ようと戦う。卵は世界だ。生まれようと欲するものは、一つの世界を破滅しなければならない。鳥は神に向かって飛ぶ。神の名はアプラクサスという」(121ページ)
 シンクレールはデミアンと再会する。彼の自宅に招かれる。そこでデミアンの母エヴァ夫人と会う。その人こそがシンクレールの夢に出てきた大いなる母の顔だった。『崖の上のポニョ』に出てきた母「グランマンマーレ」と近いでしょうか。なんでもわかってくれる。抱擁してくれる。それでいてやってはいけないことも諭す。存在を包み込む、まさに大きな母。彼は一時幸せな時間を過ごす。が、社会は刻々と変化に向けて動いていた。
 それは戦争だった。第一次世界大戦。ヘッセ自身が戦争によって大きく変化することを求められた。ナチスドイツが肥大化するにつれ、彼の本は発禁処分となった。収入は絶たれた。それでも彼は戦争をよしとしなかった。でも故郷の同胞が無残に死んでいくのを見るのは耐えられない。作家として何を書けばいいのか。何を信じればいいのか。ユングのもとでカウンセリングを受けた。その結果がこの「デミアン」なのでした。
 戦地にあって、シンクレールとデミアンは重症を負う。担ぎ込まれた病棟で、二人は隣り合わせになる。

「はてしなく長いあいだ、彼は私の目をたえ間なく見ていた。徐々に彼は顔を私の方に近づけたので、私たちはほとんど触れあうほどになった。
「シンクレール」と、彼はささやき声で言った。
 私は彼の言うことがわかるという合図を目で知らせた。
 彼はふたたび微笑した。ほとんど同情をもってのように。
「ちびさん!」と、彼は微笑しながら言った。
 彼の口は私の口のすぐそばにあった。小声で彼は話し続けた。
「まだフランツ・クローマーをおぼえているかい?」と、彼はたずねた。
 私は彼に向かってまばたきをした。私も微笑することができた。
「シンクレール、よく聞きたまえ! ぼくは去らなければならないだろう。きみはおそらくいつかまたぼくを必要とすることがあるだろう、クローマーに対して、あるいはほかのものに対して、そのとき、きみがぼくを呼んでも、ぼくはもうそうむぞうさに馬や汽車でかけつけはしない。そのとききみは自分の心の中を聞かなけらばならない。そしたらぼくがきみの中にいることに気づくよ。わかるかい? ―それからもう少し言うことがある。エヴァ夫人が言った、きみがいつか逆境にいることがあったら、彼女がぼくにはなむけしてくれたキスをきみにしてあげておくれって……目を閉じたまえ、シンクレール!」
 私はすなおに目を閉じた。たえず血が少しずつこやみなく出て来るくちびるに軽いキスを感じた。それから私は眠りこんだ」(215-216ページ)

 デミアンもその母も、もう私の中にいて、困ったとき助けに来てくれる。心の中さえ聴くことができるのなら。
 この本に書いてあることは、ほとんど僕が書きたいことと等しい。
 言葉にしづらいことを丁寧に書いてある。だからこそぼくはいつまでも大事にこの本を持ち、必要に応じて読み返す。何度読んでも心の器からこぼれてしまうその言葉を拾おうとして。
 愛についてのこんな言葉もまたぐっと来て鉛筆で傍線を強く引いた。

「「愛は願ってはなりません」と、彼女は言った。「要求してもなりません。愛は自分の中で確信に達する力を持たなければなりません。そうなれば、愛はもはや引っ張られず、引きつけます。シンクレール、あなたの愛は私に引っ張られています。それがいつか私を引きつけたら、私は行きます。私は贈り物をあげません。私は獲得されたいのです」

 エヴァ夫人の言葉。
 愛は受身ではないということ。私自身の核に燃える太陽であるということ。

ヘルマン・ヘッセ著/新潮文庫/1951

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