泉を聴く

徹底的に、個性にこだわります。銘々の個が、普遍に至ることを信じて。

奪われた記憶 記憶と忘却への旅

2011-01-29 12:25:01 | 読書
 うつ病治療のため、電気ショック療法を受けた著者のジョナサン・コットは、1985年から2000年までの15年間の記憶を失ってしまった。日本ではなじみが薄い電気けいれん療法がアメリカで盛んに行なわれていることにまず驚いた。結果として脳に損傷を受け、記憶を失うことは希だとしても実際に起こってしまった。彼は記憶喪失を縁として、神経学者や心理学者、さらには役者、宗教家、かつてのガールフレンドなどと対話を重ねる。その記録がここにある。あのヘミングウェイも晩年うつ病に苦しめられ、電気ショック療法を受け、執筆の資源である記憶を失ったことに絶望し、自殺した。記憶が書く者にとって資源、資本であることをヘミングウェイによって知った。また記憶が想像と分かちがたく結びついていることも。愛しているということは想像していることだということも(トマス・ムーア、174ページ)。彼女と直接会って、話して、感じて、得た記憶が再構築されて、今彼女はどうしているか、どんな気持ちでいるか、どんなことを望んでいるのか、と思いが飛ぶ。さだまさしの「案山子(かかし)」のように「元気でいるか/街には慣れたか/友達出来たか/寂しかないか/お金はあるか/今度いつ帰る」。
 記憶は人生のバックミラーでもあった(ジェームズ・L・マッガウ、70ページ)。バックミラーとして記憶を覗き、自分がいた場所を見ることができた。それでいて人は今この瞬間にしか生きることはできない。「人間は考える葦であるが、その優れた業績は、打算や思惑のないときになされる。長い年月をかけて無私無欲の道に精進し、無邪気さを回復しなければならない。これが達成されるとき、人間は考えずして考える。人間は、空から降る雨のように考える。大洋をうねる荒波のように考える。夜空に輝く星のように考える。そう、人間はにわか雨であり、大洋であり、星である」(鈴木大拙、99ページ)人は過去に依拠して、記憶を拠り所にしてやっと存在している。しかし記憶は先にはやってこない。言語化は行動の後。今この瞬間を十分に生きるには打算や思惑や計らいを忘れること。大事なものと大事でないものを識別すること。何が大切なのか、分かるために真実が必要。「ギリシア語で真実を意味するアレテイアの文字通りの意味は「忘れないこと」です」(253ページ)「航海するには勇敢でなければならず、勇敢であるには記憶しなければならない。もしわしが勇敢だとしたら、それは祖先の言葉を覚えているからだ」(スティーヴ・トーマス、237ページ)「この世にあるいかなる幸せも/すべて他者の幸せを望むことから生まれる。/そして、この世にあるいかなる苦しみも/すべて自分の幸せを望むことから生まれる。」(シャーンティデーヴァ、282ページ)
 「精神病とは現実否定のことです」(ロバート・フレイジャー、261ページ)この言葉もすとんと来た。今、目の前にあるものを都合のいいように歪曲する。曲解する。解釈し意味づけする。なぜあるがままを受け入れられないのか。否定しなけらばならないのか。否定から肯定への過程は、ぼくの小説のテーマともなっています。
 スペインの哲学者オルテガ・イ・ガセットの言葉としてこんな文章も引用されている。「明晰な頭脳を持つ人間は、自分をあの空想的な『思想』から解放し、人生を直視し、人生の中のすべてのものには問題があることに気がつき、道に迷ったと感じているはずだ。これは単純な真理である。つまり、生きるとは道に迷った感じをもつことであり、それを受け入れる人間はすでに、自分が確かな土台の上に立っていることに気づきはじめたのである」(311ページ)味わい深い。道に迷わず、順風満帆であったならば、どうして詩や小説が生まれたでしょうか。6年間もカウンセリングに通ったでしょうか。自分は何ができるのか、何をしたいのか、毎日のように問われている。道に迷っているからこそ、ぼくは本を読み、真実の言葉を心に刻もうとし、こんな感想も書き続けている。それは少しでも勇敢に、機能的に、よりよく生きたいから。少しでもましになり、少しでもよい作品を届けたいと願うから。迷い、悩み、苦しみ、欠損、傷、弱さ・・・こうしたいわゆる暗さ、ネガティブさがない方がおかしい。「現在の私たちに起こっていることは、私たちの過去のカルマ(意図的な行為のこと)を反映しています。そのことを真に理解すれば、苦しみがやってきたときに、それは理由や原因なしにやってくるものではなく、無知による破壊的な感情および良くない行為、すなわちカルマのせいであることが理解できるでしょう。苦しみはどこからともなく私たちに降りかかってくるのではなく、私たちの過去の行為、つまり、カルマの結果です。とはいっても、誰かが苦しんでいるとしても、それは彼なり彼女なりが「悪い」人であるとか、苦しみは何らかの失敗や罰の印であるといった意味ではなく、むしろ、その人は浄化を終えようとしている、すなわち、ある特定のカルマが終わりに来ていることを意味します。この点を理解し、苦しみを浄化作業と見なせば、苦しみに意味と目的があたえられます」(ソギャル・リンポチェ、285ページ)
 こう多数の引用や発言を書いてきて、なんて記憶が豊穣なんだろうと思う。とても15年間の記憶を失った人とは思えない。
 いや、だからこそ、人一倍記憶に対して必死なのかもしれない。記憶を、想像を、生きるのに必須だと知っているからこそ大切に日々育んでいるのかもしれない。
 小説を書く上で、記憶と想像が分かちがたく結びついていることが裏付けられて支えになった。
 ぼくにできることを日々重ねていくしかない。
 思い出すことは癒しでもあった。人とは記憶そのものでもあった。
 ぼくは確かに記憶力がいい。お蔭で難しい試験も通った。
 感謝の気持ちは心の記憶でもあった。
 ぼくが今まで出会った様々な人たちとの得難い交流、感じたこと、体験したこと、想像したこと、失敗したこと、すべての記憶は使用可能となった。
 大切に、今を生きる者として、他者と共有できるものとして、記憶という糸を想像という針で編んでいけたらと思う。
 すばらしく刺激的でかつ温かい本でした。この本もまた、捨てられない記憶としてぼくの手元に残っていくでしょう。

ジョナサン・コット著/鈴木晶訳/求龍堂/2007


 

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