大学生以来のウィトゲンシュタイン。この超訳シリーズでまた読むことになるとは思ってもみなかった。
一番お世話になった先生の哲学演習は、ウィトゲンシュタイン「論理哲学論考」の独英対訳本のプリントを使った翻訳と議論。
私は、ちんぷんかんぷんだった。訳するだけで精一杯で、議論になど参加できなかった。
しかしその、ちんぷんかんぷんで引っ込み思案そのものが、そのときの私。
ウィトゲンシュタインは、そうやって今の自分の有様を照らし出す。
今回は意外とわかりやすかった。それは「超訳」だからかもしれない。
自分がわかりやすくなったからだとも思う。
あれから19年も経った。理解するための言葉や知恵や体験や物語を積み重ねてきた。
理解してもらってたくさん助けてももらった。
初恋の人のこともそうですが、実感するのは「時は流れない」という事実。
時は、透明なガラス板に描かれた絵が、何枚も重なるように堆積する。人は、それらの堆積の一番上に立っている。
どんな建物になっているかは、その人しだい。どのように積み重ねてきたかによる。
マズローの欲求階層説によると、自己実現欲求は一番上にある。そこが見えていたとしても、到達するためには確かな足場が必要。
その足場の一つ一つとなるのが、時というガラス板。そこにどんな絵が描かれているのかは、その人の命の燃焼具合による。
その一枚一枚を丁寧に確かに描き、焼き上げ、固め、誰かの役に立つものとして提供するのが漫画家であり小説家の仕事。
時が流れてしまうのであれば、その一枚の絵はいつまで経っても仕上げられない。
時が流れないからこそ、その人自身を支える一つの足場が成立する。
時間は流れるものではない
「時間がたつ」
「時が過ぎ去る」
「時間の流れ」
「時間の浪費」
わたしたちはこのような言い方をし、このように信じている。
しかし、時間があたかも流れていくように感じてしまうのは、何か他の過程、たとえば時計の針の動きという過程が添えられるときだけだ。
そういう別のものが添えられない限り、時間はそういうふうに流れていくことはない。
(169頁)
教会の庭師としても働いたウィトゲンシュタイン。
言葉の掃除人とも言えます。
この夏、整理整頓できてよかった。
見晴らしがよくなった。
本というのは、一つ一つの足場そのものなのかもしれません。
ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン 著/白取春彦 編訳/ディスカヴァー・トゥエンティワン/2018
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