新書を担当するようになって、いくつか心に留まったものを買っているのですが、その一冊。
まずこの一冊から。
小説を書いていて、どうしても暴力が出てくる。どうしてなのだろうと自分でも思う。
主題の一つとして暴力があった。なぜ人が怪物になるのか。
それはこの本の副題でもありました。
読んで納得。具体的シーンを描く際の骨組として支えられるというか。
いじめは、古今東西、人が誕生してから普遍に存在し続ける構造を持っていた。
「全能はずされ憤怒」という言葉、とても印象的。
いじめる者は、いじめられる者に、かつての自分を見ていた。
かつての自分をコントロールすることで、かつての自分を乗り越えようとしていた。
それは癒し。癒しとしてのいじめ。
いじめの構造を促すものとして、「みんな」があった。
中学に入ると、なぜか制服で、クラスの一致団結が何よりも優先される(軟禁状態!)。
みんな仲良くしなければならない。この見えない同調圧力が、神聖なノリを増幅させる。
うつっちゃう。異を唱えれば、標的にされる。
いじめることは利益と直結してもいた。市民の法が入れば、そんなものすぐに解消されるというのに。
やってもいい状況を作らないこと。何が危険かを知っていること。
うまく説明できないのですが、興味ある方はぜひ一読を。
知ることは生きる力。
もう一つ。今、いじめで苦しんでいる人に対して、「死なないで」と言ってはいけない。
苦しんでいる人は、言葉になる以前のもんもんとした混沌状態にいる。
何をすればいいのかわからず、わらをもすがる思いでいる。
安らいで眠ることもできず、びくびくして日々をやりすごしている。
その人に「死なないで」と言うと、その人は、今の状況は、生きるか死ぬかの選択をすべきなのだと思ってしまう。
生きたいけど、こんな状況とても無理。じゃあ死んじゃおう。お父さんお母さんごめんなさい。
という結果に導く恐れが高い。
伝えるべきは、君を苦しめている人たちは決して仲良くすべき「友だち」なんかじゃなく、「敵」であるという明確な定義。
戦うべき相手であればこそ、抵抗する力も湧いてくる。
そして、私は君の味方なんだよと。
この過酷な状況、どうやって乗り越えて行こうか、と、重荷をともに背負うこと。
内藤朝雄著/講談社現代新書/2009
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