ボランティアは、「何かしたい」ではなく、「何ができるか」を考えて行動することだという。
日本にもいない、ましてや発展途上の国にいるわたしにできること。
それは、ボリビアでの活動の中で見つけていくしかない。
自分の置かれている立場は、JICAボランティア。
ボランティアとして、子どもたちがわかる、楽しいと思える算数の授業を現地の先生と模索すること。
それと同時に、日本人である自分は、子どもたちにこの地震のことを伝えて、
子ども達の思いを共有できる場をつくりたいと感じた。
学級活動や道徳、朝の先生の話のようなものはなく、
自分のおもいを発言したりつづりを書かせる場面は、これまで見たことがなかった。
地震後、授業のたびに少しだけ時間をもらって、日本の現状や子どもたちのことを各クラスで話す。
そうすると、先生たちが私のあとに、とてつもないパワーで子どもたちへ語りだす。
そして先生は、感想を求める。
日頃、感想を出し合うことをしない子どもたちは、もちろんシーンとなる。
しかし一人が「被災地は、いまものがないんだね」ときっかけをつくると、
続けて「自分達には家があるね」「家族がいるね」と言う。
先生「あななたちは何ができますか」
「自分達はものは送れないよ」
先生「日本の子どもへ伝えたいことはありますか」
「心がよくなる言葉を伝えたい」
この「心がよくなる言葉」というのは直訳だが、とても嬉しかった。
「わたしは、こう思います」なんて上手に伝えることはできないけど、素直なつぶやきだった。
そして日本の子どもへメッセージを書きたい子は、言葉を家で考えてくると言った。
メッセージを送るのは、多分復興の延長上で、住む家ができて食べ物があって、
人々の生活が落ち着いてきてからしかできないだろう。
けれど、ボリビアの子どもたちへ現地の先生と共に伝えることは、いまだからこそと思う。
この学校で、日本人は私だけ。
日本を知らない子どもたち。
「何かしたい」から始まった行動を「何ができるか」へ。
日本にもいない、ましてや発展途上の国にいるわたしにできること。
それは、ボリビアでの活動の中で見つけていくしかない。
自分の置かれている立場は、JICAボランティア。
ボランティアとして、子どもたちがわかる、楽しいと思える算数の授業を現地の先生と模索すること。
それと同時に、日本人である自分は、子どもたちにこの地震のことを伝えて、
子ども達の思いを共有できる場をつくりたいと感じた。
学級活動や道徳、朝の先生の話のようなものはなく、
自分のおもいを発言したりつづりを書かせる場面は、これまで見たことがなかった。
地震後、授業のたびに少しだけ時間をもらって、日本の現状や子どもたちのことを各クラスで話す。
そうすると、先生たちが私のあとに、とてつもないパワーで子どもたちへ語りだす。
そして先生は、感想を求める。
日頃、感想を出し合うことをしない子どもたちは、もちろんシーンとなる。
しかし一人が「被災地は、いまものがないんだね」ときっかけをつくると、
続けて「自分達には家があるね」「家族がいるね」と言う。
先生「あななたちは何ができますか」
「自分達はものは送れないよ」
先生「日本の子どもへ伝えたいことはありますか」
「心がよくなる言葉を伝えたい」
この「心がよくなる言葉」というのは直訳だが、とても嬉しかった。
「わたしは、こう思います」なんて上手に伝えることはできないけど、素直なつぶやきだった。
そして日本の子どもへメッセージを書きたい子は、言葉を家で考えてくると言った。
メッセージを送るのは、多分復興の延長上で、住む家ができて食べ物があって、
人々の生活が落ち着いてきてからしかできないだろう。
けれど、ボリビアの子どもたちへ現地の先生と共に伝えることは、いまだからこそと思う。
この学校で、日本人は私だけ。
日本を知らない子どもたち。
「何かしたい」から始まった行動を「何ができるか」へ。