以心伝心 from Bolivia

青年海外協力隊として2年間、ボリビアの小学校で活動。

ものは送れない

2011年03月31日 | 日記
                     

5年生の子が言ったように、わたしたちはものは送れない。

でもみんなが日本のことを心配している。

そこで被災地の小学生に、メッセージを送ることになった。

スペイン語だから、下に日本語の訳をつけようと思っている。

地球の裏側だからって、とても他人事ではない。

それぞれの力で、自分の力を表現する。

それはちっぽけかもしれないけど、やらなければ「無」のままだから。

人の力によって

2011年03月30日 | 日記
そこで見てるだけなのか。

そこで悲しんでいるだけなのか。

自分自身に問いかける。

人はかならず人の力によって、何かが動き始める。

いのちがあるかぎり、無限大だ。

家族のいないひとには、愛情を。

家のないひとには、お金を。

日本人は、その力がきっとある。

それは、達成とか満足とかそういうことばでは片づけられない。

絶望ではなく希望を。

人は生きていかなくてはならないのだから。

そのために、できることをやりたい。

いま力のある人は、それぞれの力でやってみよう。

人はかならず人の力によって、何かが動き始める。

タラブコ祭り2011

2011年03月24日 | 日記
こちらスクレは、交通機関のデモが連日続き、学校も行ったらなかったり、

ないと聞いて行かなかったらあったり・・と今週は、はっきりしないもどかしい毎日でした。

ようやく終息し、明日からは通常通りになるそうです。

さて先週の日曜日は、スクレから1時間半のタラブコ村でお祭りがありました。

音楽を奏でたり、踊ったりで、織物の村タラブコは盛り上がっていました。

  

  


エボ大統領も来ていたようですが、人だかりでさっぱり見えず。

それよりも、ボリビアの鮮やかな織物に夢中になっていました。(私はタラブコ5回目なんですが…)

ボリビアの友達がいつもスクレの道ばたで織物を売っています。

いつも声をかけるので仲よくなり、協力隊員をタラブコへ案内するときは、この家族を紹介しています。


私の右の子が友達。そしてその家族。

タラブコへ行くときに、ヤンパラエスという羊と土壁の家しかない村を通りますが、そこに住んでいるそうです。

次回は、ヤンパラエスの家に遊びに行くことにしました。


そしてもう一人の友達、カティー。隣は兄。

カティーは、スクレの大学生。家族で、日曜日だけタラブコにカフェを開いています。

彼女は社交的で英語もペラペラです。カフェで踊りを披露したり、サービス精神に溢れています。

家族を支える女社長のような存在感。


こんな素朴な道を通っていくと・・・

  
ほのぼのしたカフェがありました。


色使いが、かわいい。


ほっと一息のおじいちゃん達。

タラブコは現代と共存し、伝統を守っている素敵な村でした。

日本へpart4

2011年03月22日 | 日記
ボランティアは、「何かしたい」ではなく、「何ができるか」を考えて行動することだという。

日本にもいない、ましてや発展途上の国にいるわたしにできること。

それは、ボリビアでの活動の中で見つけていくしかない。

自分の置かれている立場は、JICAボランティア。

ボランティアとして、子どもたちがわかる、楽しいと思える算数の授業を現地の先生と模索すること。

それと同時に、日本人である自分は、子どもたちにこの地震のことを伝えて、

子ども達の思いを共有できる場をつくりたいと感じた。


学級活動や道徳、朝の先生の話のようなものはなく、

自分のおもいを発言したりつづりを書かせる場面は、これまで見たことがなかった。

地震後、授業のたびに少しだけ時間をもらって、日本の現状や子どもたちのことを各クラスで話す。

そうすると、先生たちが私のあとに、とてつもないパワーで子どもたちへ語りだす。

そして先生は、感想を求める。

日頃、感想を出し合うことをしない子どもたちは、もちろんシーンとなる。

しかし一人が「被災地は、いまものがないんだね」ときっかけをつくると、

続けて「自分達には家があるね」「家族がいるね」と言う。

先生「あななたちは何ができますか」

「自分達はものは送れないよ」

先生「日本の子どもへ伝えたいことはありますか」

「心がよくなる言葉を伝えたい」

この「心がよくなる言葉」というのは直訳だが、とても嬉しかった。

「わたしは、こう思います」なんて上手に伝えることはできないけど、素直なつぶやきだった。

そして日本の子どもへメッセージを書きたい子は、言葉を家で考えてくると言った。

メッセージを送るのは、多分復興の延長上で、住む家ができて食べ物があって、

人々の生活が落ち着いてきてからしかできないだろう。

けれど、ボリビアの子どもたちへ現地の先生と共に伝えることは、いまだからこそと思う。

この学校で、日本人は私だけ。

日本を知らない子どもたち。

「何かしたい」から始まった行動を「何ができるか」へ。