竹久 夢二美術館へよく行くが、この方は、女性遍歴が多い。
岸 たまき、笠井 彦乃、お葉の3名が代表であるがこの方以外にも親しい女性がいたのだ。
愛遍歴についても数々の評伝があり、自身の日記や手紙などで語られる愛の言葉は、後世の多くの創作の題材ともなっている。
- 岸たまき
- 1882年7月28日 - 1945年7月9日、石川県金沢市出身、本名は他万喜。
- 戸籍上唯一妻となった女性である。兄を頼って上京後、結婚歴があり死別した前夫との間に二児があった。自立のために早稲田鶴巻町に開店した絵葉書店「つるや」に、夢二が客として毎日店に通いつめた挙句、2ヵ月後には結婚にいたった。2年後には離婚するが、その翌年に再び同棲、そして、別居を繰り返す。
- 夢二が彦乃を知った後の大正4年(1915年)、たまきと画学生東郷鉄春(青児)との仲を疑い、富山県の海岸で夢二がたまきの腕を刺すことによって破局を迎え絶縁にいたるが、たまきは夢二亡き後も終生彼を慕い続けたという。
- 笠井彦乃
- 1896年3月29日 - 1920年1月16日、山梨県南巨摩郡西島村(現・身延町西島)生まれ、本名はヒコノ。別名に山路しの。
- 日本橋の紙問屋の娘として裕福に育ち、女子美術学校の学生であった。夢二のファンであり、絵を習いたいと「港屋絵草子店」を訪問し、交際が始まる。
- たまきと別れ京都に移り住んだ夢二としばらく同棲するが、大正7年(1918年)九州旅行中の夢二を追う途中、別府温泉で結核を発病。父の手によって東京に連れ戻され、夢二は本郷菊富士ホテルに移るが、面会を遮断される。御茶ノ水順天堂医院に入院した彦乃は、そのまま短い人生を終える。
- 夢二は彦乃を最も愛していたようであり、その死後しばらくショックから立ち直れなかった。「彦乃日記」をのこす。
- お葉
- 1904年3月11日 - 1980年10月24日、秋田県出身、本名は永井カ子ヨ:かねよ。
- 上京後、東京美術学校のモデルとして人気があった。藤島武二、伊藤晴雨らのモデルをつとめた後に、菊富士ホテルに逗留していた夢二のモデルとして通ううちに同棲、渋谷(現在の渋谷ビーム、同地に石碑あり)に所帯をもつ。大正13年(1924年)、夢二が設計した世田谷「少年山荘」に一緒に移り住んだ。一児をもうけるが夭折。翌14年にお葉は自殺を図り、半年後に別離する。後、医師と結婚し主婦として穏やかな生涯を過ごした。
- 秀逸な絵画作品である『黒船屋』はお葉をモデルとした。
あのすばらしい夢二式美人は彼女たちをイメージしたのものが多い。
女性遍歴がなければ夢二指揮美人は生まれなかったったのかも知れない。
浮気を肯定する訳ではないが・・・・。でもちょっと羨ましい気がする・・・・。
夢二がの恋の作詞である。ちょっと写真がぼやけてすいません・・・・。
夢二は恋人に多くのラブレターも残している。
トシをとっても恋を続けた夢二。きっと絵を描くためのエネルギーにしていたに違いない。