しっぽなのうつうつ

<宇宙(そら)>に魅せられて・・・
お写真、勉強中♪

『死線を超えて祖国へ』

2018-10-05 14:12:47 | つぶやき
本日、初霜。
秋を通り越して、冬の足音を感じます。

けれど、季節を楽しむ暇もなく、私はゴミと格闘中。
亡くなった父が遺した空き家。
その処理のために、片付け担当は、今失業中の私。





緑色の袋は、旭川市の燃やせないゴミ用の有料袋。
20ℓ~40ℓの大きな袋を、もう50個くらいは出したのではないだろうか?
もちろん、燃やせるゴミも同量、あるいはもっと?

それでも、まだ終わらない。
車で30分ほどかかる道のりを、何度も行き来してゴミを持ち帰り、自宅で分別してから出す作業が意外と精神を疲弊させる。


こういった、置物とかも困るんですよね。
ごみで捨てるのが心苦しいから。


そんな中、少し驚く物を発見した。

満州から引き揚げてきた母の母親。
私の祖母の記録が、古い書類の中に残っていたのです。





知り合いが『死線を超えて祖国へ』という本を書き、送られてきたその本を呼んだ祖母が、同じような経験を記し纏める機会があったようです。
編集してくれたのは、祖母の弟と関係する人で、あとがきに書かれています。

『視線を・・・』の本は祖父母の家を解体する時に紛失したのか、私が処理してしまったのか分からないけれど、今手元にはない。

祖母が書いた20数ページの冊子には、夫の赴任地である満州へ行き、終戦を迎え、夫とはぐれ、幼子を抱えて逃げ、必死に生き延び帰国した、逞しい母親の姿が綴られていた。

私の母の記憶は、子供の経験と言うこともあり曖昧なところもあったけれど、祖母の手記はかなり細かい移動の様子も書かれている。



少し印象的な描写があった。
ソ連兵の監視下、移動した後、日本人開拓村に作られた難民収容所に着いた時、床のある所は先着の人たちが居て、祖母達は土の上。

『その人等の目は満語も話せぬ軍属家族にはいつもつきまとった意地の悪い目で、同じ日本人なのにと真に情けない思いでしたが「なにくそ」と気力もわきました。』
と、書かれていました。

あれれ・・・、日本人同士の助け合いの精神は、なかったのか?


いろいろなデマに翻弄されながらも、いよいよ引き上げの時。

中国共産党率いる八路軍の難民本部で、帰還者の名簿書きを手伝いながら、汽車の順番を待っていたそうです。
そこには、日本人の共産党員もいたのです。
祖母は、15歳の長女(私の母)、12歳の長男、7歳の次男を連れていた。

『幹部の人だったと思います・・・「あんたの子供は優秀だし体もよいから党員教育をしたいから置いて行け。」心配なら良い人を世話するから残ってはどうかと申しました。又、あなたの主人は高級将校だからソ連からは帰れぬ、日本は焼け野原、途中から米軍の船へ、そして南米へと脅かしました。その人の名は、忘れもしません。(日本の苗字が書かれている)・・・こうなればと度胸を決めて、とっさに大きな声で「共産党員にはなりません。私は軍人の家に生まれ軍人の妻になった者です。唯々帰国をのみ願って今まで懸命に生きてきたのです」と開き直りました』


厳しい状況の中で、祖母は逞しい女に成長したらしい。


教育勅語で精錬教育を受けたはずの日本人に、売られそうになったり実際売られた婦女子も居る。
過酷な状況で、同胞を貶めようとした日本人も居た。

凍える環境で助けてくれたのは、満人だった。

一人の女性の、逃避行の記録。
感慨深い、物語でした。



コメント (4)
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