23. 治承・寿永の乱に関する逸話
治承・寿永の乱は、平安時代末期の治承4年(1180年)から元暦2年(1185年)にかけての6年間にわたる国内各地の内乱であり、平氏政権に対する反乱である。
この源平の戦いは元暦2年(1185年)3月24日、関門海峡の壇ノ浦で最後の戦いが行われ、源氏の勝利で終わり、平氏は滅亡した。
この戦いで平氏の武将は海へ身を投じ、安徳天皇と二位尼も三種の神器とともに入水した。
この治承・寿永の乱に関する逸話は全国各地に沢山ある。
しかし、石見地方においては、見受けることがあまりない。
この数少ない逸話を取り上げてみた。
23.1. 佐々木高綱の鎧
宇治川の戦いは、平安時代末期の寿永3年(1184年)1月に源義仲と源頼朝から派遣された源範頼、源義経との間で戦われた合戦で治承・寿永の乱の戦いの一つである。
佐々木 高綱は、平安時代末期から鎌倉時代初期の武将である。
近江国の佐々木庄を地盤とする佐々木氏の棟梁である佐々木秀義の4男で、母親を通じて源頼朝、源義経、源義仲らは従兄弟にあたる。
宇治川の戦いにおける梶原景季との先陣争いで知られる。
宇治川の戦いでは、頼朝に与えられた名馬「生唼(池月)いけづき」にまたがって梶原景季と先陣を争い、初めは遅れをとるが、景季に馬の腹帯が緩んでいるので締め直すように薦めて行わせ、その間に先陣を切った。
文治2年(1186年)には長門、備前の守護へと任ぜられる。また安芸・周防・因幡・伯耆・出雲・日向などに恩賞地を拝領している。
建保2年(1214年)11月、信濃国筑摩郡(現長野県松本市)で死去。
高綱の末裔
次男・二郎左衛門尉光綱は出雲国野木に住し、野木(乃木)氏の祖となったとされる。
光綱は叔父である隠岐守義清の猶子となり、子孫は出雲佐々木氏(隠岐流)の一門として出雲国内に分封された。出雲佐々木氏の宗家である塩冶氏の滅亡後は、守護として入部した山名氏や京極氏の被官として西日本各地に分散していった。
江戸時代に毛利氏に仕えた乃木傳庵は、この高綱流・野木氏の末裔を称し、一族からは玉木文之進や明治の軍人・乃木希典が出た。特に希典は祖先尊崇の念が極めて強く、高綱ほか佐々木・野木一族の顕彰に努めた。
23.1.1.黄櫨匂威大鎧の残餡闋
宝生山甘南備寺には、黄櫨匂威大鎧の残餡闋(国重文指定)が保管されている。
この鎧は天正17年(1587年)に丸山城主の小笠原長旌(第15代石見小笠原氏当主)が、小笠原家代々の家宝であった佐々木高綱の鎧を、奉納し武運長久を祈ったものと伝わっていた。
現在は鎧の、胴が前後と栴檀の板、袖、𩊱(しころ、錣とも書く)の一部が残っているだけである。
だが、大体の貌は伺うことができ、大鎧で豪壮なもので あったことが思われる。
この鎧は佐々木高綱の大鎧であったと伝わっていが、制作年はもっとふるく、今では石見小笠原家の家宝として伝わっていた別の鎧(佐々木高綱の鎧ではなく)であると云う説が強い。
23.1.2.鎧の謂れと、専門家の調査
天正17年 (1587年) 丸山城主小笠原長旌が、この鎧を奉納し武運長久を祈られしものと伝えられている。
昭和7年10月 (1932年) 日本甲冑研究家山上八郎博士が東京から調査に訪れた。その時くずれものをそれぞれ名をつけ、四重の硝子張りの箱の中に保存していた。
山上博士が言うには、
国宝級で全国5指の中に数えられる逸品で、山陰には日の御崎と須佐神社に600年前のものがあるがボロボロになっている。
また出雲大社にあるのが450年前のもので完全な形をしている。
甘南備寺にあるのは一部欠けているが750年前の作である。
昭和25年(1950年)4月15日東京から鎧師明沈宗恭が来て調べ非常に感服して、 稀に見る立派な鐘で山随一であると鑑定した。
同年11月再東京から山上博士が堀英吉氏と共に再度来山し調査の結果、この鎧は黄櫨匂敷目大鎧 (はじにおいしきめよろい)といわれ今からおよそ800年前(平安末期)の作で平重盛が源平時代に着用したものと同じ色目である。
しかし残念なことに約大半が属具が逸散している。
完全ならば約8貫目の大鎧で実物は全国にも類例のない逸品であるが、この状態では直ぐには評価がむずかしい、と言った。
昭和40年(1965年)1月山上博士は鎧研究家山岸素夫と共に三度目の調査に訪れた。
この鎧は残欠であり、胴が前後と栴檀の板と袖と𩊱の一部が残っているだけで大体を伺うことができる。
しかも、これは大鎧で豪壮なものであったことが伺える。と評価した。
そこで甘南備寺は重要文化財の価値があることを、 島根県文化課に要請した。
その結果、昭和40年6月に県文化財に指定された。
続いて昭和41年6月に国の重要文化財に指定され国立博物館に陳列展示された。
昭和51年(1976年)8月、昭和52年(1977年)12月山上博士は山岸素夫と共に4度目の調査に訪れた。
その結果、佐々木高綱着用とみるのは誤りで、それよりもっと古く、古戦記に見る源氏八領と呼ばれたものに匹敵すると言い、次のように語った。
小笠原氏の発祥地は甲斐国で鎌倉時代の初期に阿波国に移り、同時代末期に石見国邑智郡流域を領して同郡温湯城に移り勢力を張ったのは確かである。
この鎧の製作年代は保元平治以前と考えるのが妥当で、甲斐源氏の祖、新羅三郎義光の孫小笠原氏の祖小笠原長清のものと見るのが正しいだろう。
現在中国地方最古の鎧として有名な、鎮西八郎為朝や平重盛 (厳島神社所蔵) の時代と、八幡太郎義家や新羅三郎義光(三河国猿投神社所蔵)の時代との中間に時代に造られたものであることが考証される。
23.1.3.黄櫨匂威大鎧の復元模造の話
昭和51年の夏、武家風俗研究家の山岸素夫(当時48歳)が調査のため、甘南備寺を訪れた。
山岸氏に甘南備寺の案内や説明を行ったのは、甘南備寺総代の一人である原田静雄(当時54歳、坂本在住)であった。
この時に、原田静雄は「山陰地方随一の名鎧を復元して、みんなに知ってもらいたい」と考え、山岸素夫に櫨匂威大鎧の復元作成を依頼した。
山岸素夫は、この鎧の研究解析のためにもなると、喜んで制作を引き受けたという。
山岸が設計図を作り、甲冑師の加藤一兜とともに、約1年かけて復元した。
復元された鎧は昭和52年(1977年)12月18日に山岸と加藤が持参し組み立てて、原田静雄に手渡された。
このことは、地方紙「山陰中央新報」に三段見出しで大きく掲載された。
<新聞記事から抜粋>
大鎧の現物は小札の高さ約7.9センチ、幅4センチ、三枚重ねの厚さ1センチの大きさだが、復元したものはすべて原寸の二分の一。
残っていない兜は、栃木県の根小屋神社の御神体となっている大兜の星兜をまね、金真廻の冠板、鳩尾板と呼ばれるものも復元した。
兜の正面を飾る鍬形と鍬形台は日本で最古の清水寺と八代神社にあるものをまねている。
胸板の部分は鹿皮で飾られ、ぼたんだすきに唐花紋をつけている。
全体に武家文化と平安時代の貴族文化を合わせたようなムードを漂わせて作ってあるのが特徴である。
復元された鎧は、現在邑智郡邑南町口羽の延命寺(住職:口羽秀典)で保管・展示されている。
それから12年後、この櫨匂威大鎧を原寸法で復元しようとする人間が現れた。
桜江町川戸の実業家、今井産業の2代目社長今井久祥である。
今井久祥は美術工芸品の蒐集にも熱心で、郷土に残るこの鎧の復元模造を目指した。
平成元年(1989年)原田静雄から山岸素夫を紹介され、山岸の監修のもと加藤一冑が制作することになった。
今井久祥が依頼したのは、原寸の模造品で、完成までに6年以上掛かった。
しかし今井久祥は大鎧が完成する1年前の平成6年(1994年)に急逝したのである。さぞ心残りであったと思われる。
原寸法の鎧が何故7年近くかかったのか?
これは寸法が倍になると、体積が8倍になるため、完成期間がそれなりに長くなるため。
それと恐らく、最初の二分の一の作品は、研究対象でもあり興味津々で対応したため製作速度が早かったのではないのかと、勝手に思うのである。
現在、出来上がった櫨匂威大鎧は今井久祥氏が蒐集した美術品を展示するために建てられた今井美術館に展示されている。
<続く>