31.延喜天暦の治
後醍醐天皇は念願の鎌倉幕府滅亡を果たし、150年ぶりに政権を取り戻すと、元弘3年/正慶2年(1933年)に元号を「建武」と改める。
この「建武」という元号は、古代中国、後漢の劉秀(光武帝)が、王莽によって乗っ取られて滅亡した漢王朝を復興させたときに使われた年号であり、後醍醐天皇が復興の思いを込めたものと思われる。
また「建武」は東晋の元帝司馬睿が晋王であったときの元号でもある。
後醍醐天皇は、生前にみずからの諡号を〈後醍醐〉と決めていた。
これは延喜(第60代醍醐天皇)・天暦(第62代村上天皇)の治を理想として、それを拠り所としていた。
両治世は天皇親政が行われ、王朝政治・王朝文化の最盛期となった理想の時代として後世の人々に観念された。
摂関政治は第56代清和天皇時代に藤原良房を初の摂政にしたことに端を発する。
藤原一族が摂関摂関や内覧といった要職を占め、政治の実権を独占するようになる。
この摂関政治は、白河天皇(第72代天皇)が院政を敷く頃から、実権は低下していった。
延喜天暦の治世では、摂関を置かず天皇親政を行い、数々の業績を収めたとされ、後代になって、この治世を延喜・延暦の治世と呼ばれるようになり、平安後期には理想の政治像として定着した。
この時代の前後の歴代の天皇を眺めてみることにする。
31.1.第56代清和天皇
まず、この話は清和天皇から始めたい。
清和天皇は、日本の第56代天皇で、平安時代前期に在位していた人物である。
清和天皇の在位期間は天安2年(858年)から貞観18年(876年)までで、父は宇多天皇、母は藤原不比等の娘である光明子である。
清和天皇の諱は惟仁で第55代の文徳天皇の第四皇子である。
父文徳天皇が践祚して4日目の嘉祥3年(850年)3月25日に生まれた。
母方の祖父である藤原良房の後見のもと、3人の兄を退けて生後8ヶ月で皇太子となった。
天安2年(858年)文徳天皇の崩御にともない、9歳で天皇に即位する。
清和天皇は即位後、朝廷の権力強化に努め、また、藤原氏との関係を重視してその人材を登用し、貴族社会の統合を図った。
また、大化の改新以来の国家の制度や法律を整備するなど、政治面での改革を行い、平安時代の基礎を築いたとされている。
清和天皇は仏教にも熱心だった。
清和天皇自身も出家し、僧侶としての生涯を送ったことでも知られている。
貞観8年(866年)8月に清和天皇は応天門の変で勢力を拡大した藤原良房を人臣初の摂政に任命した。
藤原氏宗に命じて「貞観格式」を編纂させる。
「貞観格」は貞観11年(869年)に完成し、「貞観式」は貞観13年(871年)に完成する。
貞観18年(876年)第一皇子である9歳の貞明親王(陽成天皇)に譲位し、太上天皇となる。
元慶3年(879年)5月に出家する。
同年10月より畿内巡幸の旅に入った。
翌年3月丹波国水尾(京都府京都市右京区)の地に入り、絶食を伴う激しい苦行を行う。
水尾を隠棲の地と定め、新たに寺を建立中、左大臣の源融の別邸棲霞観にて病を発し、粟田の円覚寺に移されたのち、元慶4年12月4日に崩御する。
清和天皇の子孫の多くが臣籍降下して清和源氏となった。
中でも広く栄えたのが第六皇子貞純親王の子経基王の子孫で、源頼朝・足利尊氏をはじめ武家源氏の大半がこの系統から出ている。
余談−1
藤原高子は清和天皇の女御の一人で、歳は清和天皇より8歳年上であった。
藤原高子は第57代陽成天皇の母であり、抜群の美貌を持っていたといわれている。
また、高子は権勢を誇り日本史上初の関白となった藤原基経の妹である。
「伊勢物語」の第6段に、この高子と「伊勢物語」主人公である、在原業が駆け落ちした様子が書かれている。
駆け落ちは一夜だけで追手に追いつかれ、引き裂かれてしまう。
むかし、をとこありけり。
女のえうまじかりけるを、年を経てよばひわたりけるを、からうじて盗み出でゝ、いと暗きに来けり。
芥川といふ河をゐていきければ、草の上にをきたりける露を、かれはなにぞとなむをとこに問ひける。
ゆくさき多く、夜もふけにければ、鬼ある所とも知らで、神さへいといみじう鳴り、雨もいたう降りければ、あばらなる蔵に、女をば奥におし入れて、をとこ、弓やなぐひを負ひて、戸口にをり。
はや夜も明けなむと思ツゝゐたりけるに、鬼はや一口に食ひけり。
あなやといひけれど、神なるさはぎにえ聞かざりけり。やうやう夜も明けゆくに、見ればゐてこし女もなし。足ずりをして泣けどもかひなし。
白玉かなにぞと人の問ひし時つゆとこたへて消えなましものを
これは、二条の后のいとこの女御の御もとに、仕うまつるやうにてゐたまへりけるを、かたちのいとめでたくおはしければ、盗みて負ひていでたりけるを、御兄人堀河の大臣、太郎國経の大納言、まだ下らふにて内へまゐり給ふに、いみじう泣く人あるをきゝつけて、とゞめてとりかへし給うてけり。
それをかく鬼とはいふなり。まだいと若うて、后のたゞにおはしましける時とや。
(文の現代語訳)
昔、男があった。
なかなか自分のものにならない女を、長年求愛し続けていたが、かろうじて盗み出して、たいそう暗い夜に連れ出して来た。芥川という川の畔を連れて行くと、草に露が光っているのを見て、あれはなに、と(女が)男に聞いた。
行く先は遠く、夜も更けていたので、鬼がいる所とも知らず、雷もすごく烈しく鳴り、雨もさかんに降っているので、がらんとした蔵の中に女を押し入れて、男は、弓を持ち矢なぐいを背負って、蔵の戸口にいた。
早く夜が明けけてほしいものだと思いつついたところ、鬼が(女を)一口に食ってしまった。
(女は)あれえ、と叫んだが、雷の音のために(男には)聞こえなかったのであった。
ようやく夜が明けてきたので、(蔵の中を)見ると、女がいない。男は足ずりをして泣き騒いだが、甲斐のないことであった。
白玉かなにかとあの人から聞かれた時に、露だと答えて、その露のように消えてしまえばよかった
これは、二条の后が、いとこの女御のそばに、お仕えするという形で居られた時に、その姿があまりに美しいので、男が盗み出して、背負って連れ出したところ、兄の堀河の大臣と太郎國経の大納言が、まだ身分の低いものとして内裏に向かっている途中、たいそう泣く人のあるのを聞きつけ、車をとめて、(泣いているのが妹と知って)取り返しなさったのであった。
それをこのように、鬼の仕業といったのである。(二条の后が)まだ大変若く、ただひとであったときのこととかや。
やがて、清和天皇が退位、高子の子である貞明親王が新天皇になる(陽成天皇)。
高子は天皇の母という立場を利用して業平をどんどん昇進させ頭中将にまで取り立てる。
在原業平は高子への思いをこのようにも歌っている。
百人一首 第17番
千早振る、神代も聞かず、龍田川、唐紅に、水くくるとは
余談−2
最近話題になっているChatGPTを使って、「清和天皇とはどんな人」と問いかけてみた。
1.日付は2月21日(火)である。
次がその答えである。
<回答>
清和天皇(せいわてんのう)は、日本の第56代天皇で、平安時代前期に在位していた人物です。
清和天皇の在位期間は858年から876年までで、父は宇多天皇、母は藤原不比等の娘である光明子(こうみょうし)でした。
清和天皇は即位後、朝廷の権力強化に努め、また、藤原氏との関係を重視してその人材を登用し、貴族社会の統合を図りました。
また、大化の改新以来の国家の制度や法律を整備するなど、政治面での改革を行い、平安時代の基礎を築いたとされています。
また、清和天皇は仏教にも熱心であり、天台宗の開祖である最澄を重用して天台宗の発展を後押ししました。
また、清和天皇自身も出家し、僧侶としての生涯を送ったことでも知られています。
清和天皇は876年に崩御し、後を継いだのは、清和天皇の第二皇子である仁明天皇(にんみょうてんのう)でした。
これを見ると、正しいところもあるが、明らかに間違っている点もある。
①まず、父は宇多天皇、母は藤原不比等の娘とあるが、これは父は文徳天皇、母は藤原良房の娘明子である。
②清和天皇は仏教にも熱心であり、天台宗の開祖である最澄を重用してとあるが、年代が合わない。
最澄は天平神護2年(766年)から 弘仁13年(822年)の人である。
また最澄を重用したのは、桓武天皇、嵯峨天達である。
2.1週間後の2月28日(火)に同じ問をしてみた。
<回答2>
清和天皇(せいわてんのう)は、平安時代初期の天皇で、在位は858年から876年までです。
清和天皇は、大中臣氏の出身で、祖父に桓武天皇、父に仁明天皇がいます。
即位当時は若くして天皇に即位し、治世の初めは藤原氏の権勢が強かった時期でした。
しかし、清和天皇はその後、藤原氏と和解し、彼らと協力して政治を行うようになりました。
清和天皇は、貴族たちとの交流を大切にし、彼らの意見を取り入れることで政治を進めました。
また、文化・教育の振興にも力を入れ、学問や書道、仏教などの発展に尽力しました。
清和天皇は、その治世を通じて平和な時代を築き、後世に「清和の治」と称えられるほどの功績を残しました。
前回の回答とかなり変わったが、間違いもある。
①大中臣の出身でもなく、祖父は仁明天皇で、父は文徳天皇である。
②「清和の治」と称されていることは、寡聞にして聞いたことがない。
ChatGPTに問いかけると、懸命に答えを出そうとして時間をかけてネット上を検索しているようであるが、明らかな間違いが提示されることもあり、ファクトチェックが欠かせない。
これもまた遊び心をくすぐる。
ネットでの情報が増加すれば、またChatGPTが学習成長することによって、面白い情報を伝えてくれそうで、楽しみである。
<続く>