30.3.元弘の乱
30.3.15. 鎌倉幕府滅亡、集団自決
鎌倉幕府滅亡に際して行われた、北条氏一族の集団自決は数百人が切腹して果てた。
切腹するとは、自殺することである。
では何故切腹自殺するのかというと、「武士は武勇を誇示することを信条とした。この武士が自ら自分の生命を絶たねばならぬとき、最も気力を要する切腹を選択し、勇名をはせようとした」からである。
自ら腹を切って死ぬという、自分の胆力・勇気を示したということである。
ただ、切腹してもすぐ死ぬわけではない、悶え苦しみ絶命するのである。
そこで本人が醜態を見せることのないよう、背後から首を斬って切腹を手伝う者が必要になった。
後に切腹の儀礼化が進むと、介錯は切腹の一部となり、足の運びや刀の構え方などの作法も確立した。
江戸時代になると、切腹というのは、武士にだけ許された。
なぜ武士にだけ許されたかというと、武士というのは支配階級としてきちんと道徳が身についており、自分の出所進退を自分で決めることができる、という合意があったからである。
30.3.15.1. 六波羅陥落 北条仲時以下四百三十余名の自決
足利高氏は京に攻め込み、激戦が始まった。
この戦いに赤松則村も参戦し、戦いは次第に幕府軍が押され始めてくる。
劣勢を悟った探題北条仲時らは、光厳天皇や後伏見上皇、花園上皇を伴い、再起を図って鎌倉へ落ち延びようとする。
しかし、すでに行く先には落人を狙う野伏達が待ち構えていた。
馬場の宿(滋賀県米原市馬場)に着いた時、南朝軍の重囲に陥り、止むなく玉輩を蓮華寺に移して戦った。
しかし、遂に敗れこの蓮華寺の本堂前で北条仲時は一族郎党432名とともに自刃した。
その際に血が川の様になって流れたと伝わる。
蓮華寺での集団自決
蓮華寺の縁起によると
元弘3年(1333) 5月7日の京都合戦に敗れた六波羅探題北条仲時公は北朝の天子光厳天皇・後伏見華園二上皇を奉じて中山道を下り番場の宿場に着いた時、南朝軍の重囲に陥り止むなく蓮華寺に玉輩を移し、大いに戦いたるも、再び戦いに敗れ遂に本堂前庭に於て、仲時以下四百三十余名悉く自刃した。
時の第三代住職同阿上人は深く同情してその姓名と年齢および仮の法名を一巻の過去帳に認め、さらに供養の墓碑を建立してその冥福を弔う。
その墓は境内にあり、過去帳は重要文化財として当山に所蔵されている。
これらの史実は、太平記・梅松論・増鏡等に詳しく記載されており、殊に吉川英治先生の私本太平記によって広く衆知されている。
馬場宿は中山道の62番目の宿場である。
現在、街道の傍に「宿場跡」の石碑が各所に建っている。
<「中山道分間延絵図」番場宿部分>
「分間絵図」は江戸幕府が街道の状況を把握するために、道中奉行に命じて作成した詳細な絵地図である。
東海道、中山道、甲州街道、日光街道、奥州街道の五街道及びその主要な脇街道の実態を把握するために作成した絵図がある。
<蓮華寺>
<北条仲時以下四百三十余名の墓>
蓮華寺(滋賀県米原市)北条仲時、従士四百三十余名の墓
光厳天皇らは、後醍醐天皇側の武士に捕らえられて京へと戻されることになった。
六波羅が滅亡すると、千早城を攻めていた軍勢は退却するが、大勢の幕府軍が討ち取られた。
ついに、鎌倉幕府は京都での拠点を失ったのである。
30.3.15.2. 鎌倉陥落 北条高時以下870余名の自決
六波羅が陥落してから、関東でも異変が起る。
千早城攻略に参加したものの、病と称して下野国(現在の栃木県)に戻っていた新田義貞が、後醍醐天皇の綸旨を受けて鎌倉を討つために挙兵したのである。
新田義貞の軍は、入間川の小手指原、及び多摩川の分倍河原で幕府軍を撃破した。
次に鎌倉に攻め入ろうとするが、鎌倉は南を海、他の三方を山で囲まれ、狭い切り通しで外と通じるだけの、守ることに有利な地形である。
そのため、新田義貞軍も攻めあぐねて戦いは膠着した。
そこで、新田義貞の本隊は、よもやと思われる稲村ヶ崎の海岸を渡って鎌倉に突入する。
その頃には他の切り通しも破られ、町には火の手があがった。
幕府軍の中からは、討ち死にや自刃する者も多数あり、約150年に亘って栄えた鎌倉幕府は、ついに滅亡のときを迎えたのである。
東勝寺での集団自決
元弘3年(1333年)5月22日、いよいよ最期を悟った北条高時を始めとした北条一族、幕府の残党800余人は東勝寺へと逃げ込んだ。
ここで執権北条高時をはじめとする一族郎党870余名が、寺に火を放ち、自害して果てた。
日本の歴史上、政権が瓦解する時に、これほど為政者一族が悲惨な死を遂げたということはない。
この北条高時をはじめとする一族郎党の菩提を弔うために作られたのが「腹切りやぐら」である。
「やぐら」とは山に囲まれ、横穴を掘りやすい鎌倉石という砂岩の自然条件の中で、鎌倉時代の中期頃から室町時代の中頃にかけて、巌堂、岩殿寺のような岩窟寺院をヒントに作られた中世の横穴式墳墓である。
こうして天下は、後醍醐天皇のものとなり、長い戦乱は終わりを告げたかに思われた。
しかし、これはさらなる動乱の始まりでしかなかったのである。
<続く>