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旅日記

望洋−56(戦時下の宮古島(続き−3))

31.戦下の宮古島(続き−3)

31.5.下地馨氏の日記抄(2)

ここで、前述した下地かおる氏の日記のうち、昭和20年6月から7月の2ヶ月間の、主として戦争と学校にかかわる記述を書き出す。

6月までの日記では曜日も記載されていたが、7月以降曜日は記載されていない。

なお、氏の日記の日付は漢字記載であるが、ここでは数字で記載した。

日本軍の組織的抵抗は終わったと考えたアメリカ軍は昭和20年(1945年)7月2日に沖縄作戦終了を宣告した。
以後、米軍の攻撃の重点が本土に向けられ、戦いの舞台が沖縄から日本本土へと移っていくのである。

下地氏の日記には、毎日のように敵機の襲撃の様子を書いているが、7月4日には『敵機の来襲が最近少なくなった・・・』と書いている。

敵機の姿は見えるが、攻撃されることはなかった。
これは、偵察のための飛行だったようである。

 

昭和20年

6月1日 金

敵機頻繁なり

6月2日 土

1.早朝より雨降る
2.午後4機で空襲
3.「今晩艦砲射撃をやる云々」で妻は心配。

6月3日 日

20機来襲

6月4日 月

1.大雨降る、住宅の防空壕一杯になる
2.25機飛ぶ、午後来らず珍らし
3.デマの多い世の中、今にも上陸しさうに言ふ者も居る。

6月5日 火

1.職員集合日ナルモ女教員3名 (千代、マツ、キミ)のみ集る、若い男教員は防衛召集
2.敵機一日中来らず珍らしい限り、如何なる理由にや。敵機が来なくても何だか不安な気がする。敵機動部隊の動きは?

6月6日 水

乙戦備下令中
(​​注釈:乙号戦備=上陸攻撃のおそれが少ない空襲または砲撃に対する戦備)
1.朝から敵機8機来襲、最高12機
2.学校附近より吉丸部隊辺をうつ、薬莢を拾ふ。馬が二頭傷をうけたとか。

6月7日 木

1.戦は主家に火がついたのと同様になった。首里那覇に敵が侵入したが其の結果? 若し沖縄本島が敵に渡るとすれば此の宮古も見込はない。然し沖縄本島は大丈夫だろう。
2.早朝より42機来襲 (東30機、西12機)

6月8日 金

1.敵機最高16機来襲
2.隊長(辻)の当番兵山田氏、長間へ移転するとて挨拶に来
3.夕方頃パラパラ学校をうつ、僕も住宅へ居たが驚いて防空壕に入った。

6月9日 土

1.職員出校日とて男教員来る。然し校長代理で投長会へ列席した奥平平茂訓導が見えないので(午後待って)とうとう明日に延期した。
2.空襲は熾烈ならず、十二、三機のみ午後は大した事ではない。

6月10日 日 雨

1.早朝敵機(一機)の機銃音に床を離る
2.職員集合日、職員会開催5月27日の校長会状況伝達
3.訓導奥平平茂欠
4.5月分俸渡る

6月11日 月,

敵機甘余機来

6月12日 火

防空壕当番、午後六時福里出発。校長、福里清良。

6月13日 水

1.防空壕当番、福里清良君夜帰る
2. 戦闘司令部の東に爆弾投下される。

6月14日 木

職員が集まる、学徒隊員調査のため。

6月15日 金

校長会 (於奉遷務所)
・疎開児童調査(郡内)
・夜間児童訓練
・戦時手当の件
・現金回収 の件

6月16日 土   

1.米特配の件に付東風平惠令経済課長訪問。友利青校長、豊岡校長、真善校長、四名尋ねる、大抵成功す。
2.ロケット弾、定正君、波平君の宅等に落ちる。波平君を更に小型爆弾も投下された。

6月18日 月

1.敵機朝八時来る。
2.今日の空襲は割合に穏やか。

6月19日 火

昨夜甲戦備下令ありし由(​​注釈:甲号戦備=上陸攻撃のおそれがある空襲または砲撃に対する戦備)

6月20日

敵機午後余り来らず

6月23日 土

珍らしくも空襲なし

6月24日 日

飛行機音のみ朝1回

6月25日 月

1.爆音のみ聞えて喋つ撃つ様子もない、のんびりとした一日!
2.職員集会日なるも高江洲君、キミ、マツ3名のみ。

6月26日 火

夕方飛行場空襲

6月27日 水

1.大型飛行艇海岸に悠悠西より東へ飛んでゆく、皆びっくりする。
2.福中、福四、加治道、嶺道、福東の児童訓練をなす。
3.敵機来らず

6月28日 木

五か所 (福中、西、北、加治道等)児童出席、訓練

6月29日

1.西東、仲原児童集合
2.夜間2機

6月30日 土

1.日中空襲無し 、夜2機来て飛行場近辺の空襲。東北の空を20余機南より北へ飛んでゆく
2.午後四時頃より職員打合会

7月1日

1.壕前に仮小屋を造る
2.夕方頃、敵機20機余来たる
3.出校日なるも敵機のため4、50名

7月2日

1.朝4、50機来襲、こんな多数を一時にみたる事なし。
2. 芋6斤半と塩100匁と交換

7月3日

1.敵機5、南より北へ通過
2.防空壕前仮小屋完成
3.児童授業、視学来

7月4日

1.敵機の来襲が最近少なくなった。本土作機と支那大陸作戦に移行したためらしい。
2. 沖縄本島に機動部隊が盛んに集結中との事だが、どちらへ向ふのか疑問である、敵は本土と支那大陸をシャ断するため済洲島や対馬に上陸を企図し、盛んに空襲を行っているとか !

7月5日

1.空襲無し、但しB 24か北海岸を東より西へ悠々と飛んで行った。
2. 村常会(午後五時)支庁長、池間中尉、勝木少佐、一之瀬参謀長の話あり。殊に一之瀬参謀長の話は受講者を憤起せしめた。「日本全国で此処よりも強固な陣地と兵力のある所は少ない、勝つためには無理と思い乍ら民にも要求する」

<B24>

7月6日

1.給仕は今日迄出校
2.長い間ひでりが続くので農民、私自身心痛の種だ。物音が水恋しさうだ。

7月7日

1.五時頃空襲あり、授業なし(6、7機)
2.夕方、清水信良氏来る、芋十斤

7月8日

1.午前八時頃敵機六機来襲
2.防空壕当番

7月9日

1.防空壕当番
2.平良へ行く

7月10日

1.空襲無し
2.米五斗二升二合、鰹八斤配給

7月12日

1.魚釣120匁のタマン一匹
2.敵機12、宮古上空を八重山へ向ふ

7月十13日

1.魚釣三斤120匁のエイトタマヌ(130)一匹
2.敵機2、30機来た由

7月14日

1.魚釣一匹も釣れず
2.爆音のみ聞え敵機来らず

7月15日

1.朝雨少し降る、清水氏=歴史教育、建設青年借、暫らくして降る
2.敵機一機海の中を飛 ぶ

7月16日

1.台湾へ上陸したなんて、デマ飛ぶ
2.12日に東京、大阪方面其の他の本土を1940機で空襲した由
3.宮古島必勝論読む
4.午前中、増俸内申書を書く
5.敵飛行艇東側をー機飛ぶ

7月17日

久しぶり、疎開した人々から通信あり
1.使丁と共に出平、用事左の如 し
・国防献金557円50銭也支庁へ納付
・増俸内中の親展書提出
・特配米四升八合の11名分、特配鰹節運搬
・貯金払戻170円
2.朝敵機16、7機東の空を台湾へ向って飛びゆく
3.平良恵利君の所から殆ど一ヶ年ぶりで便りあり、母様の喜ぶ事! 
仏印派遣冬第三五四三部隊山下隊

7月18日

爆音聞ゆるも敵機見えず。

7月19日

爆音聞え敵機見えず

7月20日

1.大雨昨夜も今朝も降る充分潤ふ
2.体に疲労感あり
3.米配給
4.御真影防空壕当番

7月21日

1.昨日に引続き御真影当番
2.飛行機1機のさばるか ?(防護警報発令)
3.何時もより早く帰校(宅)

7月22日

敵機来らず幸なり

7月25日

1.校長会開催、御真影ノ陰乾
2.来間の嵩原秀雄君と砂川芳江君新発明の爆弾で爆死を遂げた由、来間の教頭伸松君より聞いて驚く

7月26日

夜今泉伍長と漫談す、明日ウヅラ嶺の方へ引越す由

7月27日

午前、病院の恵者、衛生兵多数、ウヅラ嶺や長間へ移動、部隊長や将校連に挨拶す

7月28日

午後五時から村常会出階席
・食糧増産ノ件
・協定値豚=10円、芋6円、魚5円、牛8円、馬7円、アワ・キビ7円

7月29日

突然の空襲、3、40機程南より北へ撃ち乍ら逃げる

7月30日

職員出校日、女教員は朝ヨリ出校、職員会日なるも職員不在のため開かれず空しく帰る

7月31日

1.午後五時頃空襲あり(5、6機)
2.職員集会日なるも職員大多数来らず

 

31.5.中村メモ(2)

次に、海上挺進第四戦隊員の中村隊員が入隊以来書き続けていたメモのうちの昭和20年6月、7月分を以下に記す。

 

激しい空襲下、舟挺整備や教育・訓練も定期的に行われている。

壕堀や農耕作業は空襲や暑さを避けるためか夜間に行われるようになった。

7月に入ると、食糧不足が激しくなってくる。

さつま芋を栽培する一方で魚介類の採集をしているが、火薬を海で爆発させその衝撃で弱った魚類を採るという荒っぽいことも行っている。

また、カタツムリを採集し食べたり一部を飼育し、また色々な野草を採集食べている。

食糧不足の成果、体調を崩しており、3月時より、体重が5Kg減り、身長が3mm縮んだと記している。

また、軍の上司から聞かされた思われることを「情報」として書き留めている。

 

31.5.1.昭和二十年

六月

一日 

対日行動学科。 小屋作り。 付近の陣地爆撃される 
(情報=明日未明より九時にかけて敵落下傘部隊来襲の公算大なり)

二日 

兵器検査 。乙号戦備発令。

三日

休む。環境整理。豊部隊付きとなる

四日 

電気系統、 燃料系統整備。 十六時より農耕除草、雨強し。 久し振りに敵機来襲なし。

五日

舟整備。 十六時より農耕。 二十二時三十分非常呼集 

六日 

四時起床。 午前休む。 午後舟艇整備。
(情報=敵艦船八百隻以上南太平洋にあって北上中)

八日 

九時より大紹奉戴式。 午後精神訓話(必勝の信念) 

十日

本日より大隊炊事となる。五月中の本土来襲敵機数五千八百。
(情報=敵輸送船等百五十隻沖縄本島付近にあり、敵首里南方四軒に迫る)

十七日 

除草。 腸の調子悪く三食絶食。 十九時診断を受ける。 

十八日 

舟艇整備。 島尻の農耕一時中止。
(情報=敵機動部隊は宮古島東南方より接近しつつあり。 我が部隊は艦砲射撃に対応する準備をすべし)

十九日

舟艇整備。 夜は高尻に防空壕を掘る。
(情報=友軍機の偵察によれば、B二・C二・D十・T十二隻が東方百五十粁に、又北北東に輸送船団あり、厳戒を要す。なお島民に知らすべからず。)

二十日

那覇玉砕。機関の手入れ。 夜農耕。

二十五日

舟艇整備 。二十四時より一時間月食あり
(情報=中国・四国・東海地方にB29三百八十機来襲爆擊)

二十八日 

舟艇整備。 朝、敵二十機来襲。十一時敵飛行艇マリーナの偵察。午後戦闘計画。 夜農耕。

三十日 

午前礼式令学科。 十時半湾内で魚取り。
(情報=久米島敵に上陸される)

七月

一日

集団長視察 。午後濾水器作り。

二日

 舟艇整備 。近日中に加賀が台湾に移送につき準備。二十三時より農耕

三日

七時より壕掘り。 爆音少ない。 火薬(敵の時限爆弾か 抜き取ったもの)をビール瓶に詰めて魚群を待つ。 一回の爆破で二・三十瓩の鰯が取れる。 数量が多いので箕で掬う

八日

休む。干潮を見計らって貝(毒がありそうでも)、魚 ・かに・つのまた・たこ等何でも捕らえて食う。糧秣益々深刻

<つのまた>

十日

午前退避壕掘り。午後厠作り。

十二日 

八時より身体検査。 三月と比べ体重五瓩、身長三糎減少。

十六日 

午前藷苗移植。 午後舟艇整備。 十五時マリーナ低空で偵察飛行。 友軍の対空砲火なし。 弾薬尽きたのか。

十八日 

八時より三種混合予防注射。 就床。

二十一日

八時より藷苗取り及び移植。 十五時三十分頃石垣方面より敵十五機池間島上空通過。
(情報=水戸・釜石付近艦砲射撃を受ける。 二千機が釜石空襲、内二百五十機撃墜とのこと)

二十二日 

農耕。
(情報=付近に在りし敵輸送船団南下中(二十時) )

二十四日 

八時より十六時間まで島尻農耕。 十八時頃我が部隊の舟艇二隻が始動中誤って漏れたガソリンに引火 爆雷破裂、二艇を失う。

二十七日 

八時より十七時まで農耕。 十二時頃マリーナ超低空で強行偵察。

二十八日 

農耕。 かたつむり採取。一部を飼育。 飼料はさつま藷の葉。 食糧全く欠乏。 たんぽぽに似た苦い草、喉の痛いざみ等何ともうまい。 あざみの根は格別美味。 とかげは最高であるが足が早いため捕獲できない。

<あざみ>

三十日 

農耕魚取り。 いかに手を食い付かれる。

 

ポツダム宣言

昭和20年(1945年)7月26日、ポツダム宣言がなされた。

日本軍の降伏は目前に迫っていた。

ポツダム宣言
昭和20年(1945年)7月26日、ドイツのベルリン郊外ポツダムにおいて、英国、米国、ソ連の連合国主要3カ国の首脳(チャーチル英首相、トルーマン米大統領、スターリンソ連書記長)が集まり、第二次世界大戦の戦後処理について討議された(ポツダム会談)。

ポツダム宣言は、この会談の期間中、チャーチル首相と中華民国の蔣介石国民政府主席およびトルーマン大統領の3首脳連名で日本に対して発せられた降伏勧告である。

事後報告を受けたソ連のスターリン共産党書記長は署名していない。

<チャーチル、トルーマン、スターリン>

日本への伝達

日本への伝達は東京時間7月27日午前5時にOWI(米国戦時情報局)の西海岸の短波送信機から英語の放送が始まった。

重要な部分は4時5分から日本語で放送された。

 

<続く>

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