57.石見の戦国時代の幕開け(続き)
57.2.尼子の勃興
<尼子氏 略系図>
57.2.1尼子経久
尼子経久は尼子家第4代当主である。
経久は長禄2年(1458年)11月20日、出雲守護代・尼子清定の嫡男として出雲国に生まれた。
文明6年(1474年)、人質として出雲・飛騨・隠岐・近江守護を務める主君・京極政経の京都屋敷へ送られる。
経久は京都滞在中に元服し、京極政経の偏諱を賜り、経久と名乗った。
文明9年(1477年)応仁の乱が終結すると、出雲国に下向し尼子の家督を相続した。
<尼子経久>
段銭免除の破棄
当時の出雲守護は近江国の京極騒乱に破れ下向していた京極政経(別名政高)であった。
家督を継承した後の暫くは京極氏の意向に沿った施政を施していたが、京極政経の寺社領を押領し、美保関の段銭徴収を拒むなど独立色を強め、出雲国の国人衆との誼を広げ勢力の拡大を計った。
文明14年(1482年)12月、室町幕府は京極政経と尼子経久に重大な指令を発した(室町幕府奉行人連署奉書案)。
幕府は京極生観 (持清) 被官人に認めていた幕府段銭免除の特権を破棄し、被官人に諸役を勤めさせるよう政経と 子経久に命じたのである。
<その−1>
出雲 ・隠岐両国段銭事、故大膳大夫入道生観(京極持清)被官人等就申之、近年依免置、 公役已下闕怠之条太不可然、所詮悉令棄破、任去永享年中之例、致懸沙汰、 厳密可被仕諸役、若有及異儀之族者、 可被處罪科之由、所被仰下也仍執達如件、
文明十四年十二月十九日 下野守 判
大和前司判
佐々木治部少輔(京極政経)殿
<その−2>
出雲・隠岐両国段銭事、故佐々木大膳大夫入道生観(京極持清)被官人等就申之、近年依免置、公役已下闕怠候条太不可然、所詮悉令棄破、任去永享年中之例、致懸沙汰、 可被懃仕諸役之旨、被仰付治部少輔政経畢、更不可有難渋、 若有及異儀之族者、可被處罪科由、 被仰出候也仍執達如件、
文明十四
十二月十九日 英基 判
元連 判
佐々木尼子民部少輔(尼子経久)殿
すなわち、
出雲・隠岐両国の段銭を、京極持清のとき、その被官人の要求によって免除した。
しかし、これをよいことにして、公役以下を勤めなくなったのはよろしくない。
そこで免除をすべて廃止し、永亨年中の例のとおり、諸役を勤めるように京極政経に仰せけたから、難渋してはならない。
といった内容である。
しかし、尼子経久はこれに従わず、益々権勢の拡大を図った。
これらの行動は幕府・守護・国人から反発を受けることになった。
57.2.2.尼子経久討伐命令
ついに文明16年(1484年)に幕府は守護代尼子経久の退治命令を国侍らに発する。
<吉川家文書より>
佐々木尼子民部少輔(尼子経久)事、背御成敗、押置寺社本所領、剰今度 御所御修理料段銭事、被仰付宮両人之処、令難渋、其外条々緩怠非一之上者、被成退治之御下知畢、然而、如風聞者、佐波兵部少輔合力彼尼子出張云々、言語道断之次第也、河州進発事被仰付之処、令遅怠、結句如此之所行太不可然、自然雖有申子細、不日止其綺、可被発向河州由、所被仰下也仍執達如件、
文明十六年三月十七日 下野守 (花押)
大和前司(花押)
吉川次郎三郎(吉川経基)殿
この室町幕府奉行人奉書からは、寺社本所領の押領や幕府段銭の拒否など 尼子退治の要因であったことが読み取れる。
この事件についての史料が乏しく、具体的な状況は不明である。
後世(江戸初期)に編纂された軍記物『陰徳太平記』 によれば、経久は幕府守護の命令をうけた国人たちによって富田城から追放され、後任の守護代に塩冶掃部助が任じられたと言う。
そして、雌伏の時期を経た後、経久は同十八年正月に奇襲をかけて塩冶掃部助を討ち取り富田城の奪還に成功したとしている。
この経久の英雄譚をもとに、尼子氏を 下剋上により登場した代表的な戦国大名とみなす言説が流布していくことになる。
57.2.3.富田城の奪還
富田城の奪還について「陰陽太平記」には次のように書かれている。
<要約>
文明十六年富田城を追われた経久は、すっかり零落して漂泊していたが、その間にあって、離散した一族被官糾合に努めた。
その結果、一族の山中がこれに応じた。
経久は一方で賤民層の賀麻黨を味方につけた。
文明十八年(一四八六) 正月元旦、新年を賀す万歳のため恒例によって富田城中に入る穢多七十余人を武装させた。
そして大晦日より城の後門にひそんでいた経久ら五十六人は、万歳の鼓声を合図に城中に斬り込み、不意打ちを敢行したという。
このため守護代塩冶掃部介らは大いに狼狽し、ために七三〇余人が 討たれて、城は経久の手に入った。
この内容は、そのまま事実であるとは思われない。
というのも、いろいろ疑問点が出てくるからである。
城を奪還したことは事実だとしても、「陰徳太平記」に記されているような、「赤穂浪士討ち入り」のような劇的なことはなかったのではないかと、思われる。
恐らく「陰徳太平記」の作者は読者の感動と興奮を与えるために捏造、脚色したものであろう。
富田城を追われてより、みるも哀れに零落 し、そのような悲境の中で少数の旧恩を忘れぬ部下と共に、敵の虚をつき劇的に富田城を奪回に成功するという筋書きは、「赤穂浪士討ち入り」のような高揚感を読者に与えたに違いない。
守護の京極政経(政高)は文明18年(1486年)7月19日に上洛しているが もし富田城が敵方経久に奪いとられていたら、約七ヶ月の 間何処にいたであろうか。
このような疑問を明快に解いて くれる史料は現在のところ存在しない。
富田城を急襲された、尼子経久は一旦逃げ落ちざるを得なかった。
しかし尼子経久は以前より培かった地盤をもっており、富田城を追われた経久は奪回のためにかなりの兵力を動員して奪還したのであろう。
「陰徳太平記」には、味方となったのは、山中一族と賀麻率いる穢多の一類としているが、一族の龜井、河副らも加わったと思われる。
(注釈)尼子氏の歴史を記した「雲陽軍実記」には、龜井、山中、真木、河副らの70余人の国士が加わったとしている。
この賀麻率いる集団は鉢屋衆といい、祭礼や正月に芸を演ずる芸能集団であり、城内で芸能を演じていたものたちである。
また、この集団は一方で刀や槍などの武器をつくり兵士として行動することもあるという。
これに対し守護の京極政経は、いや応なしに再び経久を守護代に任ぜざるを得なかったと思われる。
経久としては政高を傀儡的守護として、富田城にとどめていたものと思う。
文明18年7月京極政経は息子の経秀とともに出雲から上洛する。
「新修島根県史」では、京極政高はほとんど追い出されるようにして上洛した、としているが、それを裏付けるものはない。
こうして、文明18年7月京極政経の上洛をもって、出雲は事実上 京極氏の手を離れ、尼子氏が支配するようになったのである。
戦国の乱世が始まるのである。
月山富田城
富田城は日本5大山城のうちの一つで、島根県安来市広瀬町富田の月山(標高183.9m)に築かれていた城である。
城郭跡は国の史跡に指定されている。
富田城の歴史は古く、保元・平治頃、「平景清が富田荘に来た時、八幡社を移して、築城した」との伝承がある。
鎌倉時代になると、出雲守護の佐々木氏が入城した。
以来、富田氏、佐々木氏、山名氏、塩冶氏、京極氏などが城主となっている。
尼子氏が毛利氏に破れた以降は毛利氏の家臣らが位城した。
最後の城主は堀尾忠晴で、江戸時代の慶長16年(1611年)に廃城し松江城に移った。
城跡への上り道の途中に井戸跡がある。
当時、水利は城を造るときの必要条件だった。
<山吹井戸跡>
足立美術館
月山富田城跡地の約1Km北東に、足立美術館がある。
<月山富田城跡地からの写真>
足立美術館は昭和45年、地元安来出身の実業家、足立全康氏によって開館された。
日本画の巨匠 横山大観 をはじめ竹内栖鳳、川合玉堂、富岡鉄斎、榊原紫峰、上村松園などの近代日本画と、料理人としても名を馳せた北大路魯山人の陶芸作品、林義雄、武井武雄らの童画や、現代日本画を展示するとともに、約5万坪の日本庭園を堪能できる美術館である。
<窓から見る庭園>
足立美術館は米国の日本庭園専門誌「ジャーナル・オブ・ジャパニーズ・ガーデニング」
は、2003年のランキング開始から20年連続で1位に選出されている。
2位にはこれも20年連続で京都の桂離宮が選ばれている。
次回の話は、「陰徳太平記 巻第2 尼子経久立身之事の条」を掲載する。
尼子経久が流浪し仲間を集めて、富田城を奪回する様子が描かれている。
<続く>