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旅日記

(物語)民話と伝説と宝生山甘南備寺−57(後鳥羽上皇−2)

24.6.三上皇の配流

承久の乱によって、敗れた後鳥羽上皇らは厳しく処分された。

首謀者である後鳥羽上皇は隠岐の島に配流された。
なお昨年2021年は後鳥羽上皇が隠岐遷幸800年目であった。

計画に関わった順徳上皇は佐渡島に流され、倒幕に反対していたとされる土御門上皇も自ら申し出て土佐に流された。
上皇方の貴族たちも流罪や死刑とされた。

一方、天皇は承久の乱前の5月に順徳天皇から第85代仲恭天皇に代わっていた。
これは、順徳天皇が後鳥羽上皇と共に鎌倉幕府の北条義時追討の挙兵に参加するため、第四皇子である懐成親王(当時4歳)に譲位したためである。
しかし、承久の乱の敗北により、仲恭天皇は7月9日に廃位され、後鳥羽上皇の兄の守貞親王の三男茂仁王(後堀河天皇)10歳を即位させた。

仲恭天皇は歴代の天皇の中で、在位期間が最も短い天皇である。


隠岐での後鳥羽院

隠岐へ配流になった後鳥羽院は、崎港に到着する。
この時、荒れ狂う海に向かって詠んだと伝えられる有名な御製が、

「われこそは 新島守よおきのうみよ あらきなみ風 こころして吹け」である。

この意味は、「私こそが、新しく来た島の番人である。隠岐の海の荒い波や風よ、今からは気をつけてもっと穏やかに吹くのだぞ」

その後、後鳥羽院は隠岐での第一夜を、三穂神社の参篭舎で過ごした。

三穂神社で仮泊した、後鳥羽院は

「命あれば茅が軒端の月もみつ知らぬは人の行くすえの空」

と心境を歌にしている。​​歌の意味は「命には限りがあり、時にも限りがある。粗末な萱の軒端の月を眺めて思うのは、人の行く末は分からないということだ。」という意味だそうである。

後鳥羽院は隠岐の島で「隠岐本新古今和歌集」を編集した。
この本は、一度完成した新古今集を再検討し、新古今和歌集約2000首のなかから削除作業し精選した約1600首を書き並べた本である。

また隠岐に流される身となった後も、隠岐の地で数多くの歌を詠んでおり、その和歌は「遠島百首」として残っている。

隠岐の島に流された後鳥羽上皇は、都に二度と戻らぬまま隠岐の島で延応元年(1239年)2月22日、60年の生涯を閉じることになった。

遺体は火葬され隠岐郡海士町海士の火葬塚に埋葬された。

翌年、かつて後鳥羽上皇の寵愛を受けていた西蓮(藤原能茂、童名医王丸といい、のち北面の武士、承久の乱後出家)が隠岐まできて遺骨の一部を頚に懸け帰洛し、摂津国の水無瀬殿に神霊を移し、京都大原の勝林院に納骨したという。

 

24.6.1.後鳥羽院崩御の伝説

後鳥羽院は延応元年(1239年)2月22日に隠岐で崩御した。
しかし、広島県三次市作木町に、後鳥羽上皇がこの地で崩御したとの伝説がある。

後鳥羽院御陵(三次市作木町大山)

    

   

史跡 後鳥羽院御陵
承久の乱(1221年)に北条氏によって隠岐に流された後鳥羽天皇は、貞永3年(1234年)(注)ひそかに現在の作木村香淀にうつられ、そののち延応元年(1239年)3月15日崩御され、御尊体は天王山に葬られ、また遺骨は川毛に納められたと伝えています。尚、川毛には「後鳥羽院尊儀」と刻まれた石碑もあります。
三次市教育委員会

(注)貞永2年(1233年)4月15日に改元して天福に変わっているので、天福2年の間違いではないかと思われる。

後鳥羽院尊儀(広島県三次市作木町香淀)

    

   

後鳥羽尊儀
後鳥天皇は、承久の乱で隠岐に流され延応元年三月十五日に崩御されたと伝えらていますが、隠岐に移される際か、隠岐から逃れる際かはわからないがこの地で崩御されたと伝えられています。
ご遺体を清めるために江の川に見える大きな岩の上(夫婦岩)でゆかんをされと伝えられています。また上手の瀬の上にて村人が拝んだとされる地を拝原とされ、この後鳥羽尊儀の墓の前を馬に乗って通ると必ず落馬したと伝えられています。この墓はいつ頃から有るのかは分らないが想像では小さなものが有ったものを、この地の者が文久元年に建て替えたものではないかと思えます。
願主湧吉 施主代八、理作、石工里平、信平、勢八(不明)
と刻まれています。

 

後鳥羽上皇坐像

安芸高田市高宮町佐々部の蓮照寺に「後鳥羽上皇坐像」がある。

  

高宮町教育委員会・高宮町文化財保護審議会の説明書きによると、

・・略・・
伝説の概要は次のとおりである。
隠岐を脱出した上皇は江の川をさかのぼり、大山村(現作木村大山)に行在所を設けて日を送っていたが、病気のため亡くなった。葬式をこの地であげ遺体を裏山に埋葬した。この山を有陵山という。
もとより史実と異なるが、この伝説は作木側に多くの痕跡を留めており、町域においては、当寺に安置する坐像と位牌のみで、他に例をみない。
・・略・・

  

 

 

この作木町や高宮町に伝わる後鳥羽上皇の墓地に関する伝説は、高宮町教育委員会・高宮町文化財保護審議会の説明書きにあるように、史実と異なっている。

本当に後鳥羽上皇が、密かに隠岐を抜け出してこの地区に現れたのか?或いは後鳥羽上皇を騙る人物が現れたのか?
それならば、この付近や江の川沿いにも、後鳥羽上皇若しくは高貴の某とか言った伝説が残っているに違いないが、それは見当たらない。
また伝説では後鳥羽上皇は、この地で約5年間後鳥羽上皇が過ごしたことになっているが、その過ごしたことに関する伝承も一切ない。
まるで、地から湧き出たように、周囲にその痕跡を残さず後鳥羽上皇の墓地に関する伝説だけが、この地区に生まれている。

 

しかし、火のないところに煙は立たぬ、の言葉どおり何らかの因があったのではないかだろうか。

前述した、隠岐から後鳥羽上皇の骨を持ち帰った西蓮は、その後後鳥羽上皇の菩提を弔う旅に出て行方が知れなくなったという。

そして、後鳥羽上皇の遺骨を納めた骨壺を首から下げた西蓮がやってきたという噂が一時期各地で広がったという。

ひょっとしたら、この西蓮がこの地区にやって来て後鳥羽院の遺骨を村人に見せたのではないか、と思ったりしてしまう。

 

<続く>

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