27.5. 石見小笠原氏
小笠原氏が石見国に姿を現わすのも、吉見氏と同じく弘安の役 (1281年) で沿海防備のため益田周辺に進駐してきたのに始まる。
やって来たのは、四国阿波の守護、小笠原長房の子、小笠原長親であった。
小笠原長親は当時石見地方で一大勢力を築いていた益田兼時と懇意になり、その娘である美夜を妻とし、拠点を江の川沿いの河本(今の川本)に構えた。
石見小笠原氏はその後、川本を中心に勢力を伸ばし、石見銀山を手中にするなど石東(石見の東部)最大の領地を持つようになった。
文禄元年(1592年)第15代小笠原長旌は毛利輝元により、出雲神西に移封された。
文禄4年(1595年)小笠原長旌死去し、石見小笠原氏は途絶えた。
石見小笠原氏の由来
小笠原氏は清和天皇の後裔新羅三郎義光より出て一族は甲斐源氏として栄えた。
新羅三郎義光から数えて5代目の長清の時にその所在地(山梨県中巨摩郡櫛形町小笠原)の名前を取って小笠原と称した。
小笠原長清は弓馬術礼法小笠原流の祖である。
長清の子、長経は源頼家(鎌倉第二代将軍)の五人の近習に選ばれているが、比企能員の変では比企方として拘束されている。
長経の処罰により、小笠原家は一時没落するが、承久の乱(1221年)の功により小笠原氏は信濃の他に阿波の守護となり、勢いを取り戻す。
【承久の乱】
鎌倉時代の承久3年(1221年)に、後鳥羽上皇が鎌倉幕府執権の北条義時に対して討伐の兵を挙げて敗れた兵乱。
武家政権という新興勢力を倒し、古代より続く朝廷の復権を目的とした争いである。
北条義時は朝廷を武力で倒した唯一の武将として後世に名を残すこととなった。
初代小笠原長親
阿波小笠原氏の一族の長親(長清から7代目)は海岸防備のため石見の国に渡った。
弘安の役(1281年:2回目の元寇)の恩賞として河本(川本町)周辺を領した。
邑智郡美郷町村の郷に山城(山南城)を築き拠点とした。
次の写真は山南城の出城と思われる小山
<小砦>
<小山の頂の祠>
正慶3年・延元元年(1336年)に3代目の小笠原長胤は宮方から武家方に変わる。
同年、川本の会下谷に温湯城築城に着手する。
温湯城は14年後の4代目小笠原長氏が代観応元年・正平3年(1350年)に完成させた。
<山頂が温湯城 址>
12代小笠原長隆
明応の政変(明応2年(1493年))に将軍職を廃された鎌倉幕府12代将軍足利義稙は逃亡生活を送っていた。
足利義興は、永正5年(1508年)に周防国の大内義興の支援を得て京都を占領し将軍職に復帰した。
この時の大内義興の上洛に従って、12代小笠原長隆は各地を転戦した。
足利義稙から数々の恩賞を受けており、そのうちの一つ「獏頭の枕」は長江寺(川本町湯谷)の宝物として現存している。
小笠原長隆は文武の道に秀で、三条実隆の出題で百種の和歌を詠じたり、犬追物の武芸に非凡な技を披露した。
また長隆の三男長國は甘南備寺の第11世住職になり名前を「宥桓晃意」とした。
13代小笠原長徳
13代小笠原長徳の領地は石東地方最大のものとなった。
石見銀山の経営に重要な役割を持つなど、この時代は石見小笠原氏の興隆期だった。
14代小笠原長雄
しかし14代小笠原長雄(ながかつ)の時、毛利軍の攻撃を受け、善戦の末その軍門に降ることになった。
小笠原長雄は温湯城を出て一時甘南備寺に閉居する。
この後、湯谷彌山土居に入ったが、毛利氏に遠慮して城郭は構えなかった。
15代小笠原長旌
天正11年(1583年)三原に丸山城の築城に着手する。
天正13年(1585年)丸山城が完成する。
天正17年(1587年)甘南備寺に小笠原家代々の家宝の(佐々木高綱の)鎧を、奉納し武運長久を祈ったと伝わっている。
<丸山城跡地>
文禄元年(1592年)小笠原長旌(第15代当主)は毛利輝元により出雲神西に移封される。
文禄4年(1595年)小笠原長旌没。
慶長9年(1604年)毛利氏萩に移るときに、石見の諸族の代表も萩に移ったが、神西の小笠原氏は萩への移住を許されなかった。
出雲市大島町の大就寺に小笠原長雄、長旌、長郷3代の碑がある。
出雲大就寺
小笠原長雄、長旌、長郷3代の碑
天叟院殿常久大居士同長旌
大就院殿成是大居士小笠原長雄
宗天院 常雲大居士同長郷
<続く>