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旅日記

望洋−16(海上挺進戦隊の発足)

7.海上挺進戦隊の発足

特攻艇の構想が具体的に持ち上がったのは、昭和19年(1944年)の4月のことである。

そして研究が進められ、同年7月8日に試作第1号艇が完成した。

この艇は「甲四型肉薄攻撃艇」と名付けられたが、名称は秘匿され通称連絡艇、略称㋹と呼んだ。

船舶司令部は、この㋹を以て攻撃する戦隊の主要な要員を船舶特別幹部候補生から選抜することにした。

 

7.1.海上挺進戦隊の誕生

船舶司令部では、この特攻戦隊の研究と教育のため、まず7月中旬に陸軍の各部隊から幹部として適任と思われる将校18名を選び集め、この要員を広島湾内の離島である大角間(ダイカクマ)島に作った仮施設に収容し、船舶本廠で試作した舟艇20隻を配り、この舟艇の操法及びこれを教育する方法などの研究に着手した。

ところが、広島湾でこうした特別部隊の要員の教育・研究を行なうことは、秘密保持上適当でないと判断された。

また、船舶司令部としては、この部隊の主要な要員は、船舶特幹隊の候補生で充当しようという意図があったので、 この特幹隊のある小豆島にこれを移した。

正式な編成命令は前述のとおり8月に入ってからであるが、正式編成に先立って、船舶特幹隊内で極秘の内に仮編成が行われている。

 

7月25日、船舶司令部から急使の参謀が小豆島にやってきた。

将校緊急集合のラッパが鳴り、区隊長以上の将校が集められた。

そこで、彼らは、今後の島嶼作戦に特攻を正式戦法として、大本営は7月24日に決めた、と知らされた。

そして、ここ船舶兵特別幹部候補生隊でその特攻隊を編成すると告げられたのである。

  
7.2.特別隊員へ

特攻隊はまず4つの戦隊が仮編成されることになった。

戦隊の一般隊員は特幹隊生から選抜された。

その選抜は、各区隊長が行い、中隊長に報告した。

各班から6名ずつで、中隊では計60名となり、この中隊は六コあり、合計360名が選抜された。

今回選抜されたのは、先に仮編成する第一〜第四戦隊所属の隊員になる者で、残りの特幹兵も、第四戦隊以降の戦隊に編入されるのである。

 

7月27日、藤嶺第三中隊長は、非常呼集して、全員のまえで選抜者を発表した。

第三中隊で、一番先に名前を呼ばれたのは、岩本だった。

中村は56番目に呼ばれた。

まだ、どんな任務かは知らされていない。

選抜された者は一様に喜んでいた。

 

区隊長からの告達

区隊長の中には、前日密かに該当者を集めて、特別隊に選抜したことを告げる者もいたという。

区隊長は、特別任務の内容を知っており、詳しくは言えないが、せめて隊員達に心構えだけでもさせたかったのかもしれない。
   
後に、第ニ戦隊に編入された儀藤はその時の様子を次のように語っている。

前日の夜、もうすぐ就寝前の点呼となる時刻に山崎少尉がやってきて言った。

「今から名前を呼ぶものは、直ちに営内の神社前に集合せよ」

山崎少尉は、手にしていた紙を見ながら、名前を呼び上げた。

名前を呼ばれたのは6名だった。

儀藤も、その中に入っていた。

儀藤を含めた6人は、急いで外に出て神社に向かった。

外は真っ暗であったが、しばらくすると目が慣れてきた。

兵舎の窓から漏れる明かりだけが頼りだった。

6人は緊張していた。

無駄な会話はせずに、神社に向かって急いだ。

一体何が、これから起こるのだろうか?

営門近くの神社に着くと、神社に向かって整列して待った。

しばらくすると、山崎少尉と思しき人が神社の横の闇の中から現れた。

その瞬間、緊張が走った。

その人の顔はよく見えなかったが、山崎少尉であることは、姿格好で分かった。

山崎は、6人を一人一人確かめるように時間をかけて確かめ、

「今から名前を呼ぶから、小声で『はい』といえ」

と言って、順番に名前を呼んだ。

6人の隊員がちゃんと集まっていることを確認すると、山崎は、何か決意したように「ヨシ」と言って話しだした。


「いいか、これから話すことは誰にも言ってはならない」

隊員たちは、頷き「わかりました」と言った。

「誰にも言ってはならぬ」と山崎は繰り返した。

隊員たちの頭の中を漠然とした不安が頭をかすめた。

山崎は、ゆっくり隊員たちを一人一人見つめ「いいか、絶対誰にも口外してはならんぞ」

と、同じことを繰り返した。

三度念を押されると、何か重大な任務を告げられるのかと思い、隊員たちは、ごくりと唾を飲んだ。

山崎は深呼吸した。

なにか言いにくそうな感じであった。

山崎は

「お前たちは、他に先んじて国家に命を捧げる時が来た。

この度、我が陸軍に日本の命運を担うことになる特別隊が発足した。

その部隊にお前たちを送り出すことに決めた。

これは、日頃の成績を考慮して、優秀なお前たちを選んだ。

任務の内容は今は言えない。

明日から、特別隊員として他の隊長の指揮下に入れ」

と、言った。

 

 

7.3.海上挺進戦隊の編成と特幹生

7.3.1.特幹生の配属

海上挺進戦隊に編成されたのは、結果的には特幹(船舶特別幹部候補生)第一期生だけであった。

第二期生〜第四期生の配属先は挺進戦隊以外の部隊となっている。

以下、簡単に説明する。

特幹第一期生

特幹第一期生の中から、健康及び家族情況を考慮した若干名を除外して、まず第一から第四までの戦隊が編成された。

8月上旬に各地の隊から選抜された陸士51期の少佐及び52期ないし54期の大尉が戦隊長として、又陸士55期ないし56期の中尉が第四戦隊以降の各戦隊の先任中隊長として赴任した。

また豊浜町の船舶幹侯隊第10期幹部候補生、その他各地の予備士官学校卒業生が、戦闘群長として各戦隊に十名ずつ配属となり、特幹隊内で続々と仮編成が行なわれた。

こうして先に第一〜第五戦隊が編成され、8月中旬から小豆 島の西方にある豊島に設定された特別訓練基地での操縦から撃突攻撃に至る訓練が、ほとんど夜間訓練で始められた。


8月25日に、特幹隊としての終了式が行なわれ、一期生全員が同日付で陸軍上等兵に進級し数日の休暇が与えられ た。

この頃から第六戦隊以下次々と戦隊の編成が進められ、一部 (第六及び第一一〜第一九戦隊)は8月下旬からの休暇後に、この㋹の訓練及び集結地として作られた広島県江田島の幸ノ浦の第一〇教育隊基地 (隊長は当時は松山作二中佐) で、一部 (第七〜 第一〇戦隊)は従来通り休暇後も豊島での訓練が行なわれた。 

こうして訓練の終わった各戦隊は9月上旬から11月にかけて、 一人一艇の割で舟艇を受領し、 宇品に集結後逐次輸送船に乗船して目的地の沖縄、比島に向け南下するのである。

海上挺進戦隊の編成に入らなかった172名は、 特幹隊終了後、 和歌山の船舶工兵第九連隊補充隊に配属となり、そこから次の配属先に向かった。


なお、海上挺進戦隊は、その後二十〜三十戦隊まで編成されたが、一般隊員は特幹生ではなく、各地の部隊から選抜された現役下士官(曹長、軍曹、伍長)と下士官候補者(兵長、上等兵)等で編成された。


第ニ期生以降

この後に入隊した特幹二期生〜四期生の主な配属先は次のとおりだった

第二期(昭和19年9月10日入隊、昭和20年1月10日修了式)

総員は約1,900名。
船舶工兵第九連隊(和歌山市)   
船舶整備教育隊(広島県鯛尾)    
海上駆逐隊(山口県徳山市櫛ヶ浜)  
機動輸送隊(山口県徳山市櫛ヶ浜) 
潜水輸送教育隊(愛媛県伊予三島町)
船舶通信連隊(広島市)       

第三期生(昭和20年2月10日入隊、昭和20年5月29日修了式)

この頃から、部隊名は「若潮部隊」と称されるようになっていた。

総員は約2,160名
船舶情報連隊(兵庫県西宮市)   
船舶砲兵第一連隊(広島県福山市)  
船舶通信隊補充隊(広島市)    
船舶工兵第九連隊補充隊(和歌山市)
船舶練習部 ㋹要員        
甲種幹部候補生(八紘隊      
指導候補生要員                                     

第四期生(昭和20年5月仮入隊)

総員約2,100名
船舶通信補充隊(広島市)
船舶砲兵第一連隊(福山市)
船舶機関砲第一連隊(福山市)
船舶情報連隊(西宮市)

 

7.3.2.壁一面の「血書」

第三期生に関してのエピソードがある。

平成12年(2000年)12月5日に壁に書きつけられた血書が発見される

終戦の昭和20年8月まで陸軍船舶特別幹部候補生隊の兵舎であった、東洋紡績渕崎工場の女子寮(終戦時第三期生 八紘隊(甲幹隊)が使用していた)を解体中に壁に血書で”盡忠(じんちゅう)”と書かれているのが発見された。

発見されたのは「本土決戦 一億特攻!されど大詔(たいしょう)一度下りて、大東亜聖戦終る」と始まる23行の文面である。

押し入れ奥の壁(縦1.8 メートル、横1.9メートル)に貼られた新聞紙をはがすと、血で書かれた文字が一面に浮かび上がった。

忠義を尽くすという意味の「盡忠(じんちゅう)」を題に、「全員特攻の命を拝し」「其の心の成らんとして果たさず」など、2,3行にわたって敗戦の悔しさを記し、文末は「断じて日本は負けたるにあらず」と結んでいる。

この「血書の壁」は平成16年(2004年)2月3日に靖国神社戦争資料館「遊就館」に寄贈された。

<血書の壁>

 

7.3.3.血書志願

話は変わるが、大東亜戦争中に、志願兵になるために自らの血で嘆願書をしたためた少年たちがいた。

そのうちの数例を次に述べる。

1)和歌山市

平成23年(2011年)、軍で召集などを担当した「和歌山連隊区司令部」に当時勤めていた県内の女性が保管していた4通の「血書」を和歌山市立博物館に寄贈した。

少年たちが自らの血を水で薄めて書いたとみられる。

当時の産経新聞によると、

4通の血書はいずれも、最後に「検査官殿」「司令官殿」で締めくくられていた。

少年たちの志願先の一つ「陸軍特別幹部候補生」は、徴兵年齢未満(15~19歳)の少年を陸軍下士官として養成することを目的に、昭和18年に定められた。

血書では「私を飛行兵に御採用下さい」との文面や、「サイパン陥落」(昭和19年7月)について触れたものもあり、戦況に並々ならぬ危機感を抱いていたことが分かる。

軍は当時、少年や保護者向けに志願を勧める文書も作成。市内には「よい飛行機と秀れた飛行士が必要だ。沢山必要だ」と書かれたポスターも張られていたという。

終戦後、軍籍簿などを保有していた各地の連隊区司令部は、占領軍に押収される可能性があるとして、機密書類の焼却を進めた。軍籍簿は戦場での活動などを記録しており、戦犯の証拠資料になる恐れがあった。

血書も大半が焼却されたという。

今回の血書については、和歌山連隊区司令部に勤めていた女性が、少年たちのひたむきな思いを考えるとどうしても焼却できず、命令に反して持ち帰って保管していた。

 

2)台湾

昭和17年(1942年)陸軍特別志願兵制度が施行されるや、最終採用者1020人に対し、40万人もの台湾人が応募した。

競争率は約400倍だった。

翌昭和18年、競争率は600倍に達し、血書嘆願する者も多かった、という。

李登輝

昭和19年に中華民国第4代総統李登輝が幹部候補生に血書志願している。

<「血書志願の熱誠結実」昭和19年2月25日付け 台灣日日新報>

NHK放送より

NHKが平成23年に収録した「血書志願」という録画に出演した二人の証言者(台湾高砂族)によると、多くの者は軍隊に憧れて志願したが、証言者の一人は先生から勧められて志願したという。

 

3)朝鮮

朝鮮においても、日本軍入隊のための血書志願提出が続出した。

昭和14年(1939年)には45名、昭和15年(1940年)には168名が血書を提出している。

朴正熙

韓国第5〜9代大統領で、韓国​​第18代大統領朴槿恵の父親である朴正熙も血書志願している。

<満州新聞>

 

韓国ハンギョレ新聞

2009年(平成21年)11月の韓国のハンギョレ新聞によると、

朴正熙前大統領が日帝強制占領期間に満州国軍官に志願し「死をもって忠誠を誓う」という内容の血書を書いて出したという当時の新聞記事が発見された。

この間、話でだけ飛び交っていた朴前大統領の‘血書志願’が客観的傍証により確認されたのは今回が初めてだ。

 

 

<続く>

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