気の広場

気の世界あれこれ・・・
  日常雑感あれこれ・・・

一瞬一瞬が  ・・・

2010-01-03 23:28:19 | Weblog


子どもを育てるとき

  「歯をくいしばって子どものために、
              お母さん苦労しているよ」
  ではなくて、

その苦労が楽しくて

  「あなたが生まれてきたことは、

          やっぱりお母さんにとって、大きな幸せだよ」

  というのが、

親の慈悲 ・・・ というものでしょう。


頭で考え 計算するから

  子を育てた時期は苦しくて

一方

  子どもが、

    オンブして花見などに連れて行ってくれる時期が

                 極楽 ・・・ と思うのです。


実際には

  そうではありません。

一瞬一瞬

  人を愛することが喜び ・・・ なのです。











しあわせのかくしあじ 

2010-01-03 20:39:14 | Weblog
からいお塩は

おいしい おしるこのかくしあじ

からい くるしみ かなしみ

そして わかれ

みいんな しあわせのかくしあじ

ひとふり ふたふり

ほら !

しあわせが とっても

おいしくなったでしょ ・・・

          ・・・ しあわせのかくしあじ ・・・




 

胸を虚にして ・・・

2010-01-03 19:44:27 | Weblog
中国の言葉で

胸を虚にして 腹を実にする

           ・・・ そういう言葉があります。(『老子』)


非常に大事 ・・・ です。


胸を虚にして お腹を実に

そうすると

  心臓病などなくなってしまう ・・・ わけです。

胸は

  いつでも楽 ・・・ ですから ね。


この頃は

ガンで死ぬ人も

       非常に多いけれど

心不全

心筋梗塞 で亡くなる人も

       非常に多い。


これは世の中

  非常に忙しくて

天然の法則に

  違反したスタイルでやっている ・・・ からです。










自然治癒力

2010-01-03 17:17:52 | Weblog
病気は 自分で治す。

健康は 自分で管理する。

  ・・・ これが代替療法の精神。


病気を治すのは

  現代医学でもなければ

  代替医療でもない。

自然治癒力のなせる術 ・・・ です。


このことを

一般の人たちも

         気がつきはじめてきた ・・・ 。








病気は「敵」ではない

2010-01-03 16:48:35 | Weblog
体というものには、

  正常に戻ろうとする

    本来の働きがあります。


下痢とか痛みとかいった症状は、

  体にある偏りが生じたとき、

    バランスを回復させようとしている状態だ

と考えられる ・・・ のではないでしょうか。


医者は、

病気というものを

  「敵」だと考えて、

それを

  やっつけることばかりしてきました。


そういう教育を受けてきたわけでですけれども、

生体というもの全体を考えてみると、

必ずしも

病気は

  「敵」ではない ・・・ のです。









安定感

2010-01-03 10:30:52 | Weblog
寝ようとする。

時計の音がカチカチ鳴っている。

寝られない。

それは

「できない」自分を

       時計の音で数えているのだ。

安定感のない自分なのだ。


知らぬ間に寝ている。

時計の音が気にならない。

いつのまにか

  時計の音と

       ひとつになっている。





いのち をあずかる

2010-01-03 10:00:23 | Weblog
ある中学校から、

  ぜひ生徒の前で話してほしい と頼まれて ・・・


・・・私がみなさんと同じ中学生の頃の先生は、

生徒に知識を教える

  ・・・ なんてケチな考え方は

            持っていなかったんです、

教師というより、

何よりもまず、

  生徒の いのち をあずかる

            ・・・ものと思っていました。

だから、

生徒のほうも、

  ああ、僕の いのち、

     私の いのち をあずかってくれている先生は、

         大変だなあ、

            いつも思っていたんです ・・・ 



わかってくれたかな~ ・・・ 先生方。




 

たった一人の 自分のいのち 

2010-01-03 09:30:44 | Weblog
たった一人の 自分のいのち です。


「ああ はらがへったなあ、かわりに食ってくれ」

「小便したくなってきた、かわりに便所へ行ってくれ」

「ああ ねむくなった。ひとつかわりにぐっすりねむってくれ」


誰も

  自分のかわりになることはできません。

自分の問題については、

  誰も手伝ってはくれません。

  誰も見てくれてなどいません。


やるのも自分、

見るのも自分だけ。

自分の力を精一杯出し切る以外に

             方法はありません。


毎日、

毎日、

いまこの一瞬

  自分で自己鍛錬する。

             ・・・それしかありません。










何のために生まれてきた ?

2010-01-03 09:00:33 | Weblog
「いったい、何のために生まれてきたのでしょうか?」

若い人たちから、

  そう尋ねられることが多い。

私のもとへ送られてくるメールにも、

           手紙にも 同じような質問が書かれています。


そんなことを尋ねられても、

           私は 困ってしまいます。

何とか答えてあげたいのですが、

           答えようがない ・・・ のです。


まるで

通りを歩いていると、

見知らぬ人から、

  「すみません、ちょっと教えてください。

    私はいったい、何のためにここにいるのでしょうか。

                どこから来て、どこへ行くのですか」

いきなり、

そう聞かれたようなものです。


「さあ、わかりませんね~」

            と 答えるほかありません。

何とかうまく答えようとして、

  わけのわからぬことをゴタゴタならべるより、

    頭の悪いオヤジさんさんだなあと思われても、

ただ一言、

  「わかりません」

            と 答えるより仕方ありません。





<わたし> <あなた>

2010-01-03 08:00:23 | Weblog
自分に向かって

<わたし>と呼べるものが、

  この世界にただ一人だということを、

ある日、

  しみじみとわかったとき、

深夜、

  自分以外に誰もいない部屋で、

誰一人自分を見知る者のいない街角で ・・・
 
                    ひとりでに涙が出る思いになります。


そして、

<わたし>が

  <わたし>以外の何ものでもないことに気づいたとき、

<わたし>にとっての<あなた>一人一人に出会えることが、

                        喜びであることを知ります。


親子だから、

夫婦だから、

友人だから ではありません。


<あなた>だから ・・・ です。

同じ一人の人間だから ・・・ です。





企業 ・ 事業家は 今 ・・・

2010-01-03 07:00:30 | Weblog
このところ
企業・企業家・事業家のあつまりで講演する機会が多い。
毎週というときさえあります。
(講演屋ではないから・・・チョッときつい。本業は別ですから・・・)


いまや、

どの企業も、

どの事業家も思いつめ、

  考えている究極の方向というのが、

    他を見るのではなく、

ただ一つ

  「己を清める、己を究める」

  照顧脚下

                の方向です。


まったく面白い時代になった ・・・ と想います。





天性 ・ 宝

2010-01-03 06:25:36 | Weblog
自然に備わった働きを

  無意識のうちに行うほうが、

へたに意識して

何とかしようとじたばたするよりも、

  よっぽどすぐれており、

           よい結果となります。

自分よりも能力のありそうな人と自分を比べて、

  うらやましがっているのは

           愚の骨頂です。


人それぞれ、

  みんな自分だけのもっている

    すばらしい 天性 があります。


「仕事はのろいが、

  人のいやがるような細かいことを頼んだら、

      彼は抜群だ」

「勉強はさっぱりだけれど、

  力仕事ならなんでもできるし、

      素直で明るい」

  といったように ・・・

その人には、

かならず、

その人だけにしかない

  キラキラ輝く 宝 があります。


他人をうらやむ必要など

         まったくありません。

ただひたすら、

  自分がなそうとしていることに

         全力を挙げて打ち込む。


それでいい ・・・ のです。






非言非黙

2010-01-03 05:45:56 | Weblog
あれこれしゃべってみても、だまりこくって何も言わなくても ・・・ どうやって言ったらよいのだろう ・・・

杜甫のきれいな詩の一句に
「長(とこ)しえに憶(おも)う江南三月の裏(うち)、鷓鴣(しゃこ)啼く処百花香(かんば)し」
というのがある。

・・・ わしは、春がくると、しゃこが鳴き、花が咲き乱れる揚子江の南の江南の、春三月ころを長い間、想っているよ ・・・ ぐらいに訳すのだろうか。

つまり ・・・ 世の中は無事で、なにごとも変わっていない。理屈や妄想を捨てて、この自然のまま、あるがままの姿と一体になることさ ・・・


しゃべっても、

しゃべらなっくても

  はじめからわかっているならば、

    それはそれでいいではないか。

それだけわかっているならば、

           何をしてもよい。

しゃべりたいときには しゃべり、

しゃべりたくないときには しゃべらない。

           ただ、それでよいのだ。


言葉にとらわれることはない。

沈黙にとらわれることもない。

非言非黙。