気の広場

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  日常雑感あれこれ・・・

育児書は役に立たない ・・・ 世の中と同じ

2010-05-07 21:42:41 | Weblog
 本日 育児書の権化みたいなお母さんが見えられた。
お話を聞いているうちに ・・・ 正直「まいったな~」が本音です。

 現実の世の中は生きています。
ということは、世の中そのものが生きものなわけです。
 生きものに理屈は通用しません。

 たとえば、現実の子育てに、育児書はあまり役立たないようなものです。
頭でっかちの理屈で、子育てに取り組み、ウチの子はどうも本に書かれてあるのとちがう、と嘆いても ・・・ それは当然のことですよ、お母さん。

 ある種の条件設定によりつくられた理屈を、ストレートに現実に向きあわせる ・・・ のは危険です。

 わが子にはわが子の個性があります。
一般理論の条件設定にはない、現実の諸要素をたくさん孕ませているのです。

 わが子の育児理論は、理屈をこえた子育ての体験の内からのみできるもの ・・・ と言えるのではないでしょうか ・・・ ね、お母さん。

 ・・・ と チョッピリ皮肉をこめて難しそうに言ってみました。













完全な親などいない ④ ・・・ どう思いますか?

2010-05-07 20:24:24 | Weblog
 現代は核家族が主流をしめていますが、それぞれが孤立しているかのようです。
祖先そして親、子、孫という生命の流れは、ここでは断たれていると思えます。

 かっての時代、親が生活力を失い、家庭をもった子どもに養われても、それなりに一応の権威は保たれていました。

 しかし、いまの時代、生活力失った親は、子どもたちから邪魔もの扱いを受けるようになっています。
そう極端でないにしても、子どもが自活し、家庭をもった時点で、親は過去にとり残された存在 ・・・ と化します。

 さて、こんな話は、どう思われますか ・・・

 手の不自由な舅(しゅうと)が、食事のおりにしばしば、皿を床に落として割り、そのたびに文句をいっていた嫁が、あるとき木製の皿を買ってきたのです。
「これでもう、割れることはあるまい」

 やがて、年寄り(舅)が亡くなり、彼女がそれを捨てようとしたら、子どもが言ったそうです。
「それを捨てないでね。お母さんがお爺ちゃんのようになったら、また使うから」

 恐ろしい話ですが、笑ってすますことのできない問題が、私たちに突きつけられている ・・・ のではないでしょうか。








 

完全な親などいない ③

2010-05-07 17:49:43 | Weblog
 ダメな親を反面教師にして育った例はなど枚挙にいとまがありません。

 たとえどんな親でも、自身の意識の転換により、肯定的にとらえなおすことに成功した子どもの場合、生き方のバランスを失わずにすみます。
したがって、人生に対する創造的なエネルギーが強く生じるといってよいでしょうね。

 しかし、親に対する否定的な意識に支配された子は、潜在的な自己不信からくる、人間一般への不信と厭世感にとりつかれます。
それが神経症やノイローゼ、心身症などの誘い水になっていることが少なくありません。





完全な親などいない ②

2010-05-07 06:45:27 | Weblog
 人間はつねにあやまち(ミス)を犯す存在です。
だから、この世はおもしろいし、人生の妙味もできてくるのではないでしょうか。
 だか、そのあやまちの度が過ぎたとき、悲惨な結果がでてくるのです。

 世の中にはしばしば、自分がダメになったのは親のせいだ、と攻撃的な態度をとる子どもがいます。
そのなかには、さもありなんと同情したくなるケースも少なくありません。(最近、とみに多くなったように思います)

 しかし、それでその子の問題が解決するかというと、そうではないのです。
むしろ、自らの親を否定すればするほど、かえってその人自身を打ちのめし、ますます絶望的な精神状況に追いやる傾向があります。
仮にそうならないにしても、その人の考え方のどこかに、ある頑固な「シコリ」として残り、人柄に影をつくりがちです。

 どんな親をもったとしても、その親を許せる子、あるいはいちいちあげたらキリがないほど欠点の多い親の、わずかな美点(長所)をしっかり心に抱いている子供のほうが、創造的な人生を歩いています。






完全な親などいない ①

2010-05-07 05:39:56 | Weblog
 すべての子どもは不完全な父母のもと、欠陥だらけの環境のなかで育てられます。
つまり、この世に完全な人間が存在しないように、完全なる親も環境も期待できるはずがありません。
 それだけに、人は、成長過程において、親のなんらかのあやまち(ミス)による犠牲的な一面を負わされます。

 ・・・ そんな馬鹿なことはない。自分はほぼ完璧に近い育児をやりとげた。育児書どおりにキチンと育てた ・・・ などと反論する向きがあるかもしれませんね。
 ・・・ もし、それを本気でいっているとしたら、思い上がった、自己観察ゼロの人ですよ(失礼)。

 だいたい、育児書には一般に通じることしか書かれていません。
 現実の子どもは、それぞれの個人差があり、その子に応じた各様の育て方となるのがほんとうです。

 また、子どもの立場から、自分の親は理想的な父母だった、と語る方も少なくないでしょうね。
しかし、どんなに理想的であったとしても、まったくなんのミスも犯さなかったはずはありません。
 親のあやまちに目もくれず、その良さを語れるのは、その人の生きるレベルがかなり高いからですよ。











自分のプラス面 ・ マイナス面

2010-05-07 04:32:27 | Weblog
 私たちのまわりには、自分のプラス面を自覚している人が意外に少ないことに気づきます。

 たとえ、背中にマイナス面をもつとはいえ、自分のプラス面を自覚することは、生きる自信につながり、それは心のゆとりを生みます。

 ゆとりをもった人は、他人に寛容になれますし、相手のプラスの部分を正当に評価する態度をそなえます。

 逆に、自分に自信のない人ほど、他人に点数が辛く、嫉妬の情念を燃やす傾向があります。

 一見、自信満々のように振る舞いながら他人をケナすことしかできない人は、心の深層部分で自己不信にさいなまれている場合が多い ・・・ ものです。













親の欠陥が子に反映

2010-05-07 03:30:13 | Weblog
 人は、自分に好都合な現象に対しては、自分の努力が報われていると解釈し、不都合なことがらについては、他に加害者を見つけだして憤慨するのをつねとします。
 決して自分がわるいとは認めたがりませんね。

 いい例が、子どもの問題に溺れる親の姿です。
わが子が非行に走ったり、勉強しなくなった場合、母親がとりやすい共通のパターンがあるといわれます。

 「 あの先生になってから、ウチの子はすっかり勉強しなくなった 」

 「 最近、少しおかしいので気をつけて下さい、とあれだけ先生にお願いしたのに、まったく頼りがいがない 」

 「 あの子と友だちになってから、ウチの子はわるくなった 」

 「 だいたい、あなた(ご主人)が日ごろ協力してくれないから、こうなったのよ 」

 子育てのママゴン(・・・旧い言葉ですみません)として君臨してきた、自分の責任を全く念頭に思いうかべません。
・・・ みごとというほかありません。

 しかし、子育ても自分の人生ドラマにおける、重要な題材と考えるなら、他人のせいにすることはできません。

 自分の生き方の欠陥部分が子どもの問題にでた ・・・ とみなすべきでしょうね。