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オランダとふるさと中津の関係について。
日本のオランダ学は、『解体新書』からはじまったといわれている。
『解体新書』は、若狭(福井県)小浜藩の江戸詰の典医 杉田玄白が西洋医学に興味をもち、
『ターヘル・アナトミア』とよばれた1冊のオランダ語の解剖書を手に入れたことから、
そのドラマがはじまる。
玄白は、『ターヘル・アナトミア』の当時の日本にはなかった写実的な図画(絵)に感動したのだが、
ひとつにはオランダ語を解さなかったため、絵をながめているしかなす術がなかった。
1771年3月4日、江戸の刑場で50歳くらいの女性の解剖(腑分け)があると
町奉行所から連絡をうけた玄白は、『ターヘル・アナトミア』を片手によろこんで出かけた。
実際の人体の中身と本の図画が寸分ちがわないことにおどろき、
この本の翻訳を思いたち、さっそく同志の医者に声をかけて作業にはいった。
この同志のなかに、前野良沢がいた。
良沢は豊前(大分県)中津藩の藩医で、
同志のなかでただ一人オランダ語を学んだ経験があった。
オランダ語を解するといっても前年に長崎でわずかに学んだだけで、
かすかに知っているという程度だった。
辞書もなく、オランダ通事のたすけもなく、暗中模索の日々だっただろう。
玄白は長命し、晩年、この40年前の偉業を回想した『蘭学事始』を著した。
この本の中に当時の苦労談が載っていて、
「たとえば、眉(ウエインブラーウ)というのは、目の上にはえた毛というだけの一句でも、皆目わからず、長い春の1日をついやしてもわからなかった」
と、ある。
『解体新書』の著作者の稿には、前野良沢の名は載っていない。
これは良沢の希望で、まだ翻訳が拙く完璧じゃないことと、
「自分は名声のために翻訳作業をしたのではない。日本の医学の発展のみを願い、事をなした」
という理由で、頑なに拒んだそうだ。
わがまちの先輩はエライ!