SIDEWALK TALK

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恋の西武新宿線

2024-08-20 10:04:09 | まち歩き


大学入学当初、僕は西早稲田に下宿していた。
部屋の環境もイマイチだったし、
地政学上の問題もあったから、
2年生に進学するとき中野区野方に引っ越した。

野方を選んだ理由はとりとめもない。
浜省の「西武新宿線」という曲が好きだったからだ。

通学は、野方から各駅停車に乗って、
高田馬場で山手線に乗り換えて一駅。
駅から大学の西門は徒歩1分以内という便利さだった。

卒業以来、野方を訪れたことはない。
いつか恋の西武新宿線に乗って、
自分のろくでもない素晴らしき青春の軌跡をたどってみたい。

丑の日に想う

2024-08-05 09:08:42 | 食・レシピ


若いころ、同級生のマドンナ的女の子をデートに誘って、
柳川に出かけたことがある。
柳川にはたくさんの観光スポットがあるが、
どこを訪れたのかはおぼえていないんだよね。

唯一の思い出は、ファミレスでランチしたこと。
柳川といえば鰻のせいろ蒸しが有名なので、
僕は人気店を調べ、彼女にご馳走しようと息巻いてた。

が、いざ現地に行ってみると、
彼女は鰻が苦手だという。
仕方なく僕らはファミレスでランチすることにした。

彼女は眉目秀麗で優しい娘だったけど、
こと食に関しては、鰻に限らず、
肉類NG、お酒もNGという偏食家だった。

あの柳川の日から時は経ち、
令和の夏は殺人的な猛暑の日々が続いている。
まだ日にちは決めてないけど、
近所の幼なじみと鰻で一杯やる約束をしている。
彼女はマドンナとちがって酒豪だから、
いっしょに鰻を堪能できるはずだ。

今日が土用の丑の日だからということなのかな?
どういうわけか柳川デートを思いだした。

たこパ

2024-07-02 09:13:50 | グルメ
Letter「たこパ」
いうまでもなくたこ焼きパーティの愛称で、
たこ焼きをつくって楽しむホームパーティである。


過日、幼なじみが拙宅に集って、たこパをやった。
当日は明石焼きにもチャレンジしてみた。
美味しかったし、楽しかった。
んで、またやろうといってお開きになった。


みんなでわいわい騒ぎながら、
みんなでたこ焼きをつくって、
みんなで食べるのが本来の姿のはず。
僕一人で買い物をして、
僕一人で段取りをして、
僕一人がたこ焼きを焼いた。
そしてみんなで舌鼓を打った。


これではまるでたこ焼き屋のオヤジのケータリング。
でも、これでいいのだ!

寿退社

2024-03-27 10:02:15 | 桐箱ブログ
Letter18歳新卒で入社して丸9年。
舞ちゃんが寿退社をする。


9年前のある日、
地元高校の先生が来社して、
就職希望の生徒が1人いるので、
面接してほしいと依頼された。
僕はてっきり男子生徒だとひとり合点してたんだけど、
現れたのは可憐な女子高生だった。
以来、舞ちゃんは桐箱づくりの現場で活躍することになる。


ちょうど大谷翔平選手の結婚報道があったとき、
舞ちゃんから寿退社の報告を受けた。
大谷ロスより舞ちゃんロスの方が遙かに大きい。
とはいえ彼女が幸せになるのなら、
笑顔で送りだしてあげたい。


弊社は毎年お花見を社内でするのだけど、
今年は舞ちゃんの送別会を兼ねて、
お店で懇親会をすることにした。
その幼気な容姿とちがって、意外と酒豪の舞ちゃん。
楽しい会にしたいと思う。

霍去病

2024-03-07 09:55:32 | 旅行
Letter以前から司馬遷の『史記』を、
もしくはそれに関わる本を読みたいと思っていた。
けれどかなりの長編だし、
内容も難解な気がして手が出なかった。
今回、ふと思い立って、
北方謙三著の『史記 武帝記』を読みはじめた。


この小説も全7巻という長編で、
まだ1巻の途中までしか読み進んでない。
今のところあんまりおもしろくはないのだけど、
文中に霍去病が登場したのはうれしかった。


10年ほど前、仕事で訪中した際、霍去病の墳墓を訪れた。
漢の武帝から愛と尊敬を受けつつ若く死んだ霍去病は、
武帝の意志によって武帝の陵墓「茂陵」のそばに葬られた。


西安(長安)の郊外を西へでて、
ほどなく渭水の橋を渡ったころから、
天気が悪くなった。
見渡すかぎりの麦畑の上に雲が降りたように雨気が満ちて、
急に寒くなった。
前日、洛陽では暑かった。
気候は日本とさほど変わらないはずなのに、
雨が降ると様子が変わるのかもしれない。


中国に行って驚きを感じつつもあきれてしまうのは、
2千年前の人物の墓が、
2千年前に「史記」に書かれたとおりの姿で、
無造作に野原に遺っていることだ。
霍去病が匈奴を破った祁連山に似せたと思われる人造の山があって、
その頂上に灰色の磚でつくられた祠があった。


霍去病の墓で、いま目を楽しませてくれるものは、
巨石に素朴に刻まれた石人石獣だ。
熊と格闘しているという、お伽話のような造形もある。
また、人があおむけに倒れているような形の石に、
歯をむき出して泣いている人間の顔がユーモラスに彫られている。


「この、倒れて泣いている人は、誰ですか?」
と同行してくれた取引先の陸さんに尋ねると、
奴隷主だと教えてくれた。
霍去病は、こんにちの解釈では奴隷主を倒した。
負けた奴隷主は泣かざるをえない。
しかし実際は匈奴の王かなにかにちがいなく、
顔をみてみると、アーリア人系のように思えた。


匈奴が何人種だったかについては、諸説ある。
紅毛碧眼のアーリア人という説もあるし、
トルコ人だという説もある。
僕は、論証なしに、モンゴル人だったと思っている。


いずれにしても騎射に長けた騎馬民族だったことにはちがいがなく、
この強力な騎兵隊を霍去病が騎馬戦で破ったということに、
今さらながら彼の将才にあらためて感心させられた。


このときは、商用で訪れていたために時間がなかった。
ずっと憧れていた霍去病の墓を訪れたことには満足したけど、
有名な武帝の茂陵には行けず終いだった。
次回、中国に出張するとき、
チャンスがあれば茂陵にもいってみようと思う。

浅草散歩

2024-03-06 08:57:54 | まち歩き
Letter東京で同年代の同業者(桐箱屋)と
隅田川辺の老舗鰻店で会食した。
あちらの方がお客様なのに、
お代は彼が負担してくれた。
さらに彼は下戸なのに昼酒までつきあってくれた。


その後、ジャスミンガールと待ち合わせして、
東京国立博物館で「中尊寺金色堂展」を鑑賞し、
浅草寺に向かう参道(仲見世)をぶらついた。


夜は彼女レコメンドの江戸蕎麦のお店を訪れた。
お店は向島の小路にひっそりとあって、
知らなければとてもたどり着けない。
イチローモルトのハイボールもうれしかった。


ほぼノープランの逍遙だったんだけど、
お江戸のシック(粋)みたいなものを感じられて、
少し贅沢な気分になった。

経絡秘孔

2023-11-10 08:08:00 | 健康・病気
Letter腰をいわしてしまった。
いわゆるギックリ腰。
歩行することもままならない。


苦しんでると、友達からLINEがきた。
ギックリ腰を告げると、
オススメの鍼灸院を紹介してくれた。
僕はマッサージやあん摩の類いがどうも苦手で、
鍼灸院や整体にいったことがなかった。
しかし痛みに耐えきれず、出かけることにした。


鍼灸院を訪れると彼女が電話しいてくれたらしく、
さくさくっと施術室に通された。
うつ伏せに寝かされ、診療がはじまった。


なんせ初体験。
そしてうつ伏せ。
何をされてるのかわからない。
電気が流れたような、
超音波を当てられてるような。
ともかく小一時間施術してもらった。


どうやら腰痛の施術に加えて、
身体の歪みも正してくれたようだ。
とはいえ北斗神拳の経絡秘孔のように
一突きで劇的回復というわけにはいかない。
しばらくは療養生活が続くんだろうな。

ゼネラリスト

2023-11-07 14:23:23 | 音楽
Letter武久源造氏のコンサートに出かけてきた。
その余熱がまだ僕の中に燻っていて、
心の丈を文脈など考えずに気ままに綴ってみたい。


浅学菲才で恥ずかしいのだけど、
氏についてはお名前を聞きかじっていただけで、
その功績や才能について知るところが薄かった。
裏を返せば、無垢の状態で氏に触れられた分、
先入観抜きでその音楽を鑑賞できた。


まるで中世の才人のような人である。
中世には多才な人が多かった。
欧州の代表格はレオナルド・ダ・ヴィンチで、
我が邦には千利休などがいる。


氏は盲目である。
それも全盲だという。
にもかかわらず鍵盤楽器の優れたプレイヤーであり、
作曲家で、指揮者で、一流のバッハ研究家でもある。
さらに卓越した楽器製作の工匠でもある。
まさに音楽界のゼネラリストである。


中世に衰退し、近世以降は根絶していたジルバーマン・ピアノを
氏は手探りでよみがえらせた。
盲目の氏が文献を精査し、素材を吟味し、
信じがたいことに自ら槌をふるった。
まさに刻苦勉励の日々だったと想像されるが、
氏のお人柄から推察すると、
おそらく楽しくて仕方なかったにちがいない。


今回、幼なじみからのお誘いで、
思いがけず武久源造氏のコンサートを体験できた。
ホール全体に氏の演奏と情調が満ち溢れていて、
そこにいる人たちを自然と笑顔にしていた。
その上質なエンタテイメント空間に
僕は陶然として家路についた。

ジルバーマン

2023-11-06 15:35:08 | 音楽
Letter僕はある意味、とても贅沢な場所に住んでいる。
自宅から徒歩3分圏内に
クラシックのための音楽ホールがあるのだ。
糞耳の僕にはわからないのだけど、
そこで演奏する音楽家たちは、
そのホールの音響設計を手放しで賞賛している。


過日、武久源造氏のコンサートが
その件のホール「sala arietta」でおこなわれたので、
友達を誘って出かけてきた。
とくに興味深かったのは武久氏が使用した楽器、
「ジルバーマン・ピアノ」だった。


詳細を語る能力はないが、
四捨五入すると、バッハの活動期や
モーツァルトの前半生に主流だったピアノだという。
つまりこのピアノで彼らは作曲し、演奏していた。
絶滅して久しいが、
武久氏が膨大な資料群から構造を考察し、
様々な素材を試しつつ、まさに手作りで完成させた。


今回、氏は24時間かけて、
この楽器とともに車で来訪してくれた。
アドリブが散りばめられた演奏の素晴らしさは言うまでもなく、
曲間のトークもユーモアと機知に富んでいて
退屈するということがなかった。


僕のような無粋で無教養な人間にとって、
氏の音楽やそのお人柄に触れることは無上の幸せであり、
得がたい時間になった。
武久源造氏についてもう少し書きたいのだけど、
紙数が尽きた(そんなものないのだけど)。
いつか思い立ったら、その機会に綴ってみたい。

晋州JCのことども

2023-11-02 10:51:21 | 青年会議所
Letter中津JCのかたち 「#06 晋州JC」 (2003/02/27)


教科書ふうになるが、晋州(チンジュ)市は、大韓民国の南部、慶尚(キョンサン)南道の人口32万人の都市で、洛東江(ナクトンガン)支流の南江(ナムガン)にのぞむ道西部の行政中心地である。
豊臣秀吉による精神病的自己肥大としかいいようのない朝鮮出兵(文禄の役)、韓国でいうところの壬辰倭乱のさなか、1593年に加藤清正ひきいる12万の日本軍に対し、朝鮮側の6万人が晋州城に籠城し全滅した悲劇的な古戦場として知られている。
晋州城陥落のあと、かの地に駐屯したのが豊前中津藩主であった黒田長政の部隊で、晋州総督とでもいうべき占領将校は、耶馬渓出身の侍大将・毛谷村六助(けやむらろくすけ)だった。


晋州市の精神的象徴は、「義岩」(ウィナム)と「義妓祠」(ウィギザ)である。
「義岩」は見た目には何の変哲もない川べりの岩だが、1593年に晋州城が陥落し日本軍が祝宴を催したとき、宴のために集められた官妓の朱論介(ジュ・ノンゲ)の護国忠節の舞台となった場所である。
宴のとき、着飾って舞った論介は、泥酔した日本の侍大将・毛谷村六助を矗石楼(チョクソンヌ)の下の岩場に誘いだし、六助に抱きつくとそのまま岩下の南江の流れに身を投じ、自らの命と引き替えに六助を死に至らしめた。
その岩が現在「義岩」の名で残っており、この妓生(キーセン)の忠節の話は、韓国のだれもが知っている。矗石楼の隣に、論介の義挙をたたえた祠がある。
それが「義妓祠」である。


このような歴史的背景の都市だから、1900年代初頭からの理不尽な韓国併合(韓国では国権強奪とよぶ)や、戦後の李承晩(イ・スンマン)大統領の排日政策と相まって、以前は抗日感情が強い地域であったらしい。
晋州市のお祭りで、日本武者風の鎧を着せた人形を馬で曳かせ、見物人がその鎧武者人形に石を投げつけるといったものも過去にはあったそうである。
もちろん、現在は親日的な穏やかな学園文化都市で、北海道北見市と姉妹都市になったり、島根県松江市や愛知県豊橋市との青少年スポーツ・文化交流も盛んにおこなわれたりしている。


一方、中津JCと晋州JCの姉妹交流の歴史に目を移せば、その歴史は古く、そして燦々と輝きつづけている。
知ってのとおり、1973年(昭和48)に姉妹締結の調印をし、今年で交流30周年を迎える。
九州の多くのLOMが、隣国である韓国のLOMと姉妹交流をしている。
しかし、多くの姉妹JCは、数年に1度行き来をするだけだとか、交流といっても、メンバー同士が盃を交わす程度の交流がほとんどのようである。
中津JCと晋州JCのように、毎年の交流はもちろん、お互いの地域を巻き込んだ事業を展開してきた姉妹JCは希有なケースである。
とくに、1991~1995年度に実施された「中津国際交流青少年使節団」事業は、多くの両国中学生に国際交流の機会をあたえた。
また、JCの姉妹交流がきっかけで、サッカーU15韓国代表の選手が2名、柳ヶ浦高校にサッカー留学したこともあった。
日韓の近代史や現代史を考えると隔世の感があり、韓国、または晋州の人びとの心の広さに感謝せずにはいられない。


現在、姉妹交流30周年事業については、お互いによきライバルとして議論の限りを尽くしている。
私たちの先輩である中津JCシニアクラブと晋州JC特友会の方々も、真剣に交流30周年の意義を議論し、記念事業の成功のためにコミットしていただいている。
われわれの愛すべき晋州JCとは、ざっといえばこのような関係にある姉妹JCである。