中津JCのかたち 「#06 晋州JC」 (2003/02/27)
教科書ふうになるが、晋州(チンジュ)市は、大韓民国の南部、慶尚(キョンサン)南道の人口32万人の都市で、洛東江(ナクトンガン)支流の南江(ナムガン)にのぞむ道西部の行政中心地である。
豊臣秀吉による精神病的自己肥大としかいいようのない朝鮮出兵(文禄の役)、韓国でいうところの壬辰倭乱のさなか、1593年に加藤清正ひきいる12万の日本軍に対し、朝鮮側の6万人が晋州城に籠城し全滅した悲劇的な古戦場として知られている。
晋州城陥落のあと、かの地に駐屯したのが豊前中津藩主であった黒田長政の部隊で、晋州総督とでもいうべき占領将校は、耶馬渓出身の侍大将・毛谷村六助(けやむらろくすけ)だった。
晋州市の精神的象徴は、「義岩」(ウィナム)と「義妓祠」(ウィギザ)である。
「義岩」は見た目には何の変哲もない川べりの岩だが、1593年に晋州城が陥落し日本軍が祝宴を催したとき、宴のために集められた官妓の朱論介(ジュ・ノンゲ)の護国忠節の舞台となった場所である。
宴のとき、着飾って舞った論介は、泥酔した日本の侍大将・毛谷村六助を矗石楼(チョクソンヌ)の下の岩場に誘いだし、六助に抱きつくとそのまま岩下の南江の流れに身を投じ、自らの命と引き替えに六助を死に至らしめた。
その岩が現在「義岩」の名で残っており、この妓生(キーセン)の忠節の話は、韓国のだれもが知っている。矗石楼の隣に、論介の義挙をたたえた祠がある。
それが「義妓祠」である。
このような歴史的背景の都市だから、1900年代初頭からの理不尽な韓国併合(韓国では国権強奪とよぶ)や、戦後の李承晩(イ・スンマン)大統領の排日政策と相まって、以前は抗日感情が強い地域であったらしい。
晋州市のお祭りで、日本武者風の鎧を着せた人形を馬で曳かせ、見物人がその鎧武者人形に石を投げつけるといったものも過去にはあったそうである。
もちろん、現在は親日的な穏やかな学園文化都市で、北海道北見市と姉妹都市になったり、島根県松江市や愛知県豊橋市との青少年スポーツ・文化交流も盛んにおこなわれたりしている。
一方、中津JCと晋州JCの姉妹交流の歴史に目を移せば、その歴史は古く、そして燦々と輝きつづけている。
知ってのとおり、1973年(昭和48)に姉妹締結の調印をし、今年で交流30周年を迎える。
九州の多くのLOMが、隣国である韓国のLOMと姉妹交流をしている。
しかし、多くの姉妹JCは、数年に1度行き来をするだけだとか、交流といっても、メンバー同士が盃を交わす程度の交流がほとんどのようである。
中津JCと晋州JCのように、毎年の交流はもちろん、お互いの地域を巻き込んだ事業を展開してきた姉妹JCは希有なケースである。
とくに、1991~1995年度に実施された「中津国際交流青少年使節団」事業は、多くの両国中学生に国際交流の機会をあたえた。
また、JCの姉妹交流がきっかけで、サッカーU15韓国代表の選手が2名、柳ヶ浦高校にサッカー留学したこともあった。
日韓の近代史や現代史を考えると隔世の感があり、韓国、または晋州の人びとの心の広さに感謝せずにはいられない。
現在、姉妹交流30周年事業については、お互いによきライバルとして議論の限りを尽くしている。
私たちの先輩である中津JCシニアクラブと晋州JC特友会の方々も、真剣に交流30周年の意義を議論し、記念事業の成功のためにコミットしていただいている。
われわれの愛すべき晋州JCとは、ざっといえばこのような関係にある姉妹JCである。