前回わずかにしか見られなかった津城跡を散策することも楽しみのひとつだった。
津に着いて早々、ホテルに荷物を預け、津城跡を訪れた。
津市教育委員会が設置している案内看板によると、
「津城は、織田信長の弟 信包(のぶかね)によって築城された」
と、ある。
築城当初は、五層の天守閣があったらしい。
その後、紆余曲折を経て富田氏(知らん?)が城主となったが、
関ヶ原の戦いの前哨戦で西軍の攻撃を受け、
津城および津城下は荒廃したらしい。
五層の天守閣は、このとき、焼失した。
さて、津のシンボリックな存在といえば、一も二もなく、藤堂高虎である。
高虎については、前回の訪津紀行「かんぴんたん」で触れたので、今回は省く。
【 Go URL 】----> http://blog.goo.ne.jp/kiribakonet/d/20080226
ことし2008年は「藤堂高虎公入府400年」にあたるらしく、
街のあちこちにそのことを寿ぐ幟が立てられていた。
現在の津の原型、つまり津城の縄張り、津城下の町割りは、
この高虎がおこなった。
江戸末期の津城には天守閣がなかったらしいが、
おそらく高虎の時代にもなかっただろう。
関ヶ原役後に入府したことを鑑みれば、
高虎の性格や政治的嗅覚からいって幕府にはばかって
天守閣を再建しなかったと思われる。
さて、津城跡である。
現在は「お城公園」として整備されているが、その面積はごくわずかでしかない。
といっても現在残っているのは内堀だけで、
かつての外堀を含めると相当な規模だったことが伺える。
このことは、お城からかなり離れたエリアの町名に「東丸之内」などがあることから推察できる。
前述の津市教育委員会の案内看板には、
「江戸時代終わりの津城の様子(現在の津城)」
という図面があった。
僕には図面を読む能力などないけど、
外堀と内堀で「回」字型に設計されていて、
高虎の築城思想の一部が垣間見える。
お城公園には、商工会議所側の入り口に三層の櫓(丑虎櫓?)が再建されているだけで、
これといった建造物はない。
天守閣はもちろんだが、焼失後その場所に建てられていたであろう本丸御殿も跡形さえもない。
ただ現存している石垣から想像すると、内堀だけで相当な数の櫓があったと思われる。
天守閣など無用の長物で、実際の守備は櫓のほうが重要
という、これも高虎流だろう。
ともかく、現在のお城公園だけでは、古の津城を偲ぶことはできない。
なんせ32万3千石の大藩なのだ。
僕のような無知な訪問者のために、津(市教育委員会)は城跡に史料館を設置していただければ、
もっと楽しめると思う。
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