昨日の湾岸戦争とは違う意味で忘れられない大事件「ロッキード事件」。
ロッキード事件は、アメリカの航空機製造大手のロッキード社による、主に同社
の旅客機の受注をめぐり1976年2月に明るみに出た世界的な大規模汚職事件
で日本の政財界に長く影響した。
かなり分かりにくいところもあってか、多くの本が出版された。
ロッキード社は軍用機メーカーとして屈指の大手になったが民間機市場での
地位は低下してしまっていた。
ロッキードはジェット旅客機トライスターで民間機市場での起死回生を狙って
いた。
しかしマクドネル・ダグラスのDC-10、ボーイング747はかなり売れ行きも良く
トライスターのロールス・ロイス社製ターボファンエンジンが不安定さが合った
もののロールス・ロイス社が破産・国有化され開発が遅れ、日本航空が
マクドネル・ダグラスDC-10の大量発注を決めた。
他国においても発注が伸びず、ロッキード社が各国の政治家や航空関係者
に様々な働きかけを行なっていた。
大手の全日空は低騒音性を重視して比較して、低騒音性についてはロッキード
社製に文句なく、後はダグラス社の騒音証明の結果を待ったが、見通しも得ら
れず10月28日に再度召集された役員会では、前回トライスター以外を推した
役員も大勢に従う旨を述べ、「整備が自信を持って推すもの以外は乗れない」
との意見もあった。結局、役員会ではロッキードL-1011を選定する旨決定した。
しかし田中角栄が首相を辞任した約1年3カ月後、トライスター納入2年後
全日空をはじめとする世界各国の航空会社にL-1011 トライスターを売り込むため、
同機の開発が行なわれていた1970年代初頭に各国政府関係者に巨額の賄賂を
ばら撒いていたことが明らかになった
(全日空への工作費は約30億円だったと言われる)。
さらにその後公聴会において
日本においてロッキード社の裏の代理人的役割をしていた児玉に対し1972年10月
に「(全日空へトライスターを売り込むための)コンサルタント料」として21億円あまり
を渡したこと、次いで児玉から、小佐野やロッキード社の日本における販売代理店の
丸紅などを通じ、当時の首相である田中に対して5億円が密かに渡されたことを
証言した。
また、すでに同年6月の時点よりロッキード社から児玉へ資金が流れており、この際、
過去にCIAと関係のあったといわれる日系アメリカ人のシグ片山が経営する
ペーパー会社や、児玉の元通訳で、GHQで諜報活動のトップを務めていた
チャールズ・ウィロビーの秘書的存在でもあった福田太郎が経営するPR会社
などの複雑な経路をたどっていたことがチャーチ委員会の調査によって
明らかになっている。
チャーチ委員会での証言内容を受け、検察などの本格的捜査の開始に先立つ
1976年2月16日から数回に渡って行われた衆議院予算委員会には、
事件関係者として小佐野賢治、全日空の若狭や渡辺副社長、大庭、丸紅会長
の檜山廣や専務・大久保利春、ロッキード日本支社支配人の鬼俊良などが
証人喚問され、この模様は全国にテレビ中継された。
5月、ロッキード事件調査特別委員会が発足。
その後、ロッキードと金銭疑惑があるとして「二階堂進元官房長官、佐々木秀世
元運輸相、福永一臣自民党航空対策特別委員長、加藤六月元運輸政務次官
が限りなく黒に近い灰色高官であるとされたが職務権限の問題や請託の無い
単純収賄罪での3年の公訴時効成立の問題があったため起訴はされなかった。
その後、首相三木武夫がチャーチ委員会での証言内容や世論の沸騰を受けて
直々に捜査の開始を指示、同時にアメリカ大統領のジェラルド・フォードに対して
捜査への協力を正式に要請するなど、事件の捜査に対して異例とも言える積極的
な関与を行った。これは田中角栄との確執を多くむくまれる。
また、捜査開始の指示を受けて2月18日には最高検察庁、東京高等検察庁、
東京地方検察庁による初の検察首脳会議が開かれ、同月24日には検察庁と
警視庁、国税庁による合同捜査態勢が敷かれた。
三木は、外交評論家の平沢和重を密使として送り、3月5日キッシンジャーと会談
させて米側の資料提供を求めた。米政府は同月23日、日本の検察に資料を渡す
ことを合意した。
その後三木と田中との対決を主とした争いになり、第34回衆議院議員総選挙では、
ロッキード事件の余波を受けて自民党が8議席を失うなど事実上敗北し、三木は
敗北の責任を取って首相を辞任。
後継には「三木おろし」を進めた1人の福田派のリーダーの福田赳夫が
就くことになった。
このように事件が公になり捜査が進んだ前後に、複数の事件関係者が
立て続けに急死。
ロッキード事件を追っていた日本経済新聞記者の高松康雄が
1976年2月14日、上記の福田太郎が同年6月9日、さらに田中角栄の
運転手・笠原正則が同年8月2日)など。
マスコミや国民の間で「証拠隠滅と累が及ぶのを防ぐため、当事者の
手先によって暗殺されたのではないか」との疑念を呼んだ。
最も注目された田中は1976年7月27日に逮捕されたのち、8月16日に
東京地検特捜部に受託収賄と外為法違反容疑で起訴され田中に対する公判は
1977年1月27日に東京地方裁判所で開始され、日本国内はおろか世界各国
から大きな注目を集めることになった。
その後1983年10月12日には懲役4年、追徴金5億円の有罪判決が下った。
この第一審判決を受けて国会が紛糾し、衆議院解散の
きっかけとなった(田中判決解散)。
田中はこれに対して「判決は極めて遺憾。生ある限り国会議員として職務
を遂行する」と発言し控訴したが、上告審の最中の1993年12月16日の
田中の死により公訴棄却(審理の打ち切り)となった。
田中に賄賂を渡した児玉は事件の核心を握る中心人物であったにもかかわらず、
1976年2月から衆議院予算委員会において証人喚問が行われることが決定した
直後に、「病気」と称し自宅にこもり、その後は入院した東京女子医科大学病院にて
臨床取調べを受けるなど、その態度が大きな批判を受けただけでなく、そのような
甘い対応を許した政府や検察に対する批判も集中した。
その後児玉の態度に怒ったポルノ俳優の前野光保が同年3月に児玉の豪邸へ
小型軽飛行機による自爆テロ(児玉誉士夫邸セスナ機特攻事件)を行なったが、
児玉は別の部屋に寝ていて助かった。
その後の1976年3月13日に児玉は所得税法違反と外為法違反容疑で
起訴されたが、1977年6月に1回だけ公判に出廷した後は再び「病気」と
称して自宅を離れなかったために裁判は進まなかった。
その後1980年9月に再度入院し、裁判の判決が出る直前の1984年1月
に死亡した。
なお、死亡後の相続では闇で収受した25億円が個人財産として認定された
上で相続税が計算されている。
小佐野は、1976年2月から行われた衆議院予算委員会において第1回証人として
証言したものの、「証言」が議院証言法違反にとわれ、翌1977年に起訴され、
1981年懲役1年の実刑判決を受けたが翌日に控訴したものの、その後
1986年10月に小佐野が死亡したために被告死亡により公訴棄却となった。
証人喚問されたとき、ここで小佐野が何度も口にした「記憶にございません」は、
この年の流行語となった。
「丸紅ルート」の中心人物で、事件当時社長を務めた檜山広は1976年7月に贈賄と
外為法違反容疑で逮捕、起訴され、1995年に田中元首相の秘書の榎本とともに
最高裁判所で実刑が確定した。
しかしながら高齢のために刑の執行は停止され、檜山は収監されないまま2000年
に死去した。
キッシンジャー国務長官に「ロッキード事件はあなたが起こしたんじゃないんですか」
と聞いた時「オフコース(もちろん)」と言ったというアメリカの陰謀とも言われている。
その後も多くのなぞを残している。
そのなぞに迫った本が一杯出た。
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