「浅間山荘事件」
日米安全保障条約が交わされるのに反対する全国の大学生(全学連)が中心となり一般市民も集まり、大規模なデモをし、「60年安保闘争」と言われた争いとなり、続くベトナム戦争反対運動から東大闘争、日大闘争、各大学ではバリケード封鎖などを行う中で全共闘に属する党派同士の内ゲバが激化し、一般国民は離れていった。「60年安保闘争」以来急進的な革命を志向し過激な直接行動に出た「新左翼」と呼ばれた集団が加熱して、共産主義者同盟赤軍派(赤軍派)と日本共産党(革命左派)神奈川県委員会(京浜安保共闘)が合流して連合赤軍というテロ軍団を形成し新左翼組織連合赤軍のメンバー5人(坂口弘、坂東國男、吉野雅邦、加藤倫教、加藤元久)が、浅間山荘の管理人の妻(当時31歳)を人質に立てこもった。
山荘を包囲した警視庁機動隊及び長野県警察機動隊が人質救出作戦を行うが難航し、死者3名(うち機動隊員2名、民間人1名)、重軽傷者27名(うち機動隊員26名、報道関係者1名)を出した。
ほとんどの人がテレビ見ていました。
軽井沢でサイクリングしている時見つかったのが写真です。
これは南レイクタウンというのを開発していた近くにあり、南レイクタウンは失敗したか一時の店などすべてだめになっていました。
連合赤軍は幹部全員が逮捕されたが仲間内のリンチ殺人事件が発覚し、世間に衝撃を与えた。
「よど号ハイジャック」
1969年8月に結成された共産主義者同盟赤軍派は、前段階蜂起—世界革命戦争という前段階武装蜂起論を掲げる「戦争宣言」を発し、「大阪戦争」や「東京戦争」と称して交番や警察署を襲撃するという犯罪を繰り返した。
同年の11月5日には、首相官邸襲撃のための軍事訓練を目的に山梨県塩山市(現:甲州市)の大菩薩峠に結集していたところを摘発され、政治局員数人を含む53人が逮捕(大菩薩峠事件)。翌年の1970年3月15日には赤軍派議長の塩見孝也も逮捕される。幹部が逮捕されて組織が弱体化した赤軍派は、1969年12月から1970年1月にかけ、「労働者国家に武装根拠地を建設して世界革命根拠地国家に転換させ、後進国における革命戦争と日米の革命戦争を結合して単一の世界革命戦争に推し進める」とする「国際根拠地論」を打ち出し北朝鮮に赤軍派軍事地区を作るためにハイジャックという方法を取った。
1970年3月31日、午前7時33分、羽田空港発板付空港(現在の福岡空港)行きの日本航空351便が、富士山上空を飛行中に日本刀や拳銃、爆弾など武器と見られる物を持った犯人グループによりハイジャックされた。犯人グループは男性客を窓側に移動させた上で、持ち込んだロープにより拘束し、一部は操縦室に侵入して相原航空機関士を拘束、石田機長と江崎副操縦士に平壌に向かうよう指示した。
韓国で解放された乗客は日本航空の特別機で日本へ帰国したことは幸いであった。
しかし世界的テロ軍団を日本人が作ろうと言う思想は脅威である。
「テルアビブ空港乱射事件」
犯人で捕まったよど号事件の岡本武の弟である。
1972年5月30日に奥平剛士・安田安之と共にテルアビブ空港乱射事件を実行し26人を殺害、唯一人逮捕された(奥平、安田は死亡)。このとき、鹿児島大学から放学の懲戒処分をうける。同年7月13日に岡本はイスラエルで裁判にかけられ、職業として「赤軍兵士」を自称した。また陳述のなかでは民間人を殺害したことについて謝罪せず、また「事件は当初は3人ではなく丸岡修を含めた4人で行われる予定であったが、丸岡は途中から別行動を取ったために3人で襲撃を行った」と供述している。
イスラエル政府は当初は死刑求刑を検討していたが、最終的に終身刑が求刑され、終身刑が判決として確定した後に服役。1985年にイスラエルとPFLP-GCとの捕虜交換により釈放。リビア・シリアを経由して、日本赤軍が本拠地としていたレバノンに戻り合流した。
イスラエルと対立するレバノン政府は岡本の政治亡命を認めた。
亡くなるまで長期間レバノンに在住していた。
不条理な話である。
「日本航空123便墜落事故」
「日本航空123便墜落事故」は、1985年(昭和60年)8月12日月曜日18時56分に、東京(羽田)発大阪(伊丹)行同社定期123便ボーイング747SR-46(ジャンボジェット、機体記号JA8119)が、群馬県多野郡上野村の高天原山の尾根(通称「御巣鷹の尾根」)に墜落した航空事故である。
この事故も前例がないほどの犠牲者を出した。
そして歌手「坂本九」が乗っていたこと、女性4名が助かったと言う奇跡。今でもヘリコプターで救い出された少女が忘れられない。
本日はここまで。
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