3.11東日本大震災 忘れない!風化させない!!
月乃和熊も賛同しております
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写真左から:関東軍司令官ステッセル中将 、 猛将コンドラチェンコ少将 、
セルゲイ・スミルノフ専用ティエレンタオツー
(旅順要塞司令官スミルノフ中将の写真がなかったので・・・)
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【乃木大将(19)】第3次旅順総攻撃(その10)
猛将コンドラチェンコ少将の死
12月5日、ついに第3軍は屍山血河(しざんけつが)の203高地を完全占領し、海軍陸戦重砲隊は直ちに観測所を設け、午後には旅順港に観測砲撃を開始した。
しかし、8月7日から行われた海軍陸戦重砲隊の砲撃、砲撃で逃げ出した末の黄海海戦、10月1日からの28サンチ榴弾砲と海軍陸戦重砲隊の砲撃で、旅順艦隊は壊滅していた。
その戦果を知る由もない日本軍の砲撃は3日間続き、完全に旅順艦隊の息の根を絶った。
しかし最強の三大堡塁は健在であり、旅順の死命を制してはいない。
そして12月10日、乃木は新たな攻撃命令を発する。
狙いは松樹山堡塁、二龍山堡塁、東鶏冠山堡塁の三大堡塁および、その後方に控える望台堡塁と旅順要塞内への突入である。
しかし、203高地での戦いは第3軍も甚大な損害を被ったため、強襲突撃は控え坑道を掘り進めて正面を突く正攻法に徹した。
本来は、速やかに旅順要塞を陥落させ満州北方に転進しなければならないのだが、挟撃の憂いをなくすためにも、最小限の損害で確実に旅順要塞を陥落させなければならない。
各師団は受け持ちの堡塁を目指して、工兵と歩兵は急ピッチで坑道を掘り進め、その間、比較的砲弾の数に余裕のある28サンチ榴弾砲で断続的に砲撃を続けた。
12月15日、猛将コンドラチェンコ少将は、東鶏冠山北堡塁に日本軍の坑道などの視察に赴いた。
コンドラチェンコは、工兵アカデミーで近代要塞の築城技術・戦術(攻防)を学んだエキスパートである。
ロシアと日本の関係が悪くなってきた開戦前年(1903)に旅順に赴任してきたが、赴任当時の旅順要塞は永久要塞と呼ぶには程遠い存在で、急遽コンドラチェンコが要塞構築の指揮を執り、強力な防御要塞に変貌させた。
第3軍の旅順要塞攻囲戦が始まると、常に前線に赴き陣頭指揮を執る姿は、兵士からの人気も高く、ステッセル中将とスミルノフ中将からも非常に頼りにされ、司令官的な存在であった。
奇妙なことにロシア軍の司令官は二人もいた。
「旅順要塞司令官」はスミルノフ中将で、人望厚い猛将コンドラチェンコ少将はスミルノフの部下であった。
ステッセルはスミルノフの前任で、スミルノフ着任後に満州北方に移動するはずであったが、なぜか遼東半島全域の要塞地帯の「関東軍司令官」を任命され、そのまま旅順要塞に居座ってしまった。
必然的にステッセルは指揮に介入し、守備兵にとっては甚だ迷惑この上ない指揮権の争奪戦が行われ、これが後々第3軍が勝利を引き寄せる伏線にもなっている。
203高地が陥落し旅順艦隊が殲滅されたといっても、三大堡塁は今なお健在でありコンドラチェンコの闘争心は、いささかも衰えを知らず将兵を励まし続けた。
そして、この日は視察の他に将兵の一層の奮闘を鼓舞するため、激戦を潜り抜けた将兵に勲章を授けていた。
そこへ、偶然にも第3軍が放った28サンチ榴弾砲の砲弾がひゅるひゅると飛来し、その直撃を受けコンドラチェンコは戦死してしまった。
ロシア軍屈指の猛将の死は、司令官のステッセルばかりか多くの兵士にも稲妻のような衝撃が走り、ロシア軍の士気を著しく挫いた。
前の記事 屍山血河の203高地占領
番外編=機関砲=
旅順要塞陥落!につづく~
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第1次総攻撃 第2次総攻撃 第3次総攻撃 28サンチ榴弾砲 旅順要塞降伏
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【乃木大将(19)】第3次旅順総攻撃(その10)
猛将コンドラチェンコ少将の死
12月5日、ついに第3軍は屍山血河(しざんけつが)の203高地を完全占領し、海軍陸戦重砲隊は直ちに観測所を設け、午後には旅順港に観測砲撃を開始した。
しかし、8月7日から行われた海軍陸戦重砲隊の砲撃、砲撃で逃げ出した末の黄海海戦、10月1日からの28サンチ榴弾砲と海軍陸戦重砲隊の砲撃で、旅順艦隊は壊滅していた。
その戦果を知る由もない日本軍の砲撃は3日間続き、完全に旅順艦隊の息の根を絶った。
しかし最強の三大堡塁は健在であり、旅順の死命を制してはいない。
そして12月10日、乃木は新たな攻撃命令を発する。
狙いは松樹山堡塁、二龍山堡塁、東鶏冠山堡塁の三大堡塁および、その後方に控える望台堡塁と旅順要塞内への突入である。
しかし、203高地での戦いは第3軍も甚大な損害を被ったため、強襲突撃は控え坑道を掘り進めて正面を突く正攻法に徹した。
本来は、速やかに旅順要塞を陥落させ満州北方に転進しなければならないのだが、挟撃の憂いをなくすためにも、最小限の損害で確実に旅順要塞を陥落させなければならない。
各師団は受け持ちの堡塁を目指して、工兵と歩兵は急ピッチで坑道を掘り進め、その間、比較的砲弾の数に余裕のある28サンチ榴弾砲で断続的に砲撃を続けた。
12月15日、猛将コンドラチェンコ少将は、東鶏冠山北堡塁に日本軍の坑道などの視察に赴いた。
コンドラチェンコは、工兵アカデミーで近代要塞の築城技術・戦術(攻防)を学んだエキスパートである。
ロシアと日本の関係が悪くなってきた開戦前年(1903)に旅順に赴任してきたが、赴任当時の旅順要塞は永久要塞と呼ぶには程遠い存在で、急遽コンドラチェンコが要塞構築の指揮を執り、強力な防御要塞に変貌させた。
第3軍の旅順要塞攻囲戦が始まると、常に前線に赴き陣頭指揮を執る姿は、兵士からの人気も高く、ステッセル中将とスミルノフ中将からも非常に頼りにされ、司令官的な存在であった。
奇妙なことにロシア軍の司令官は二人もいた。
「旅順要塞司令官」はスミルノフ中将で、人望厚い猛将コンドラチェンコ少将はスミルノフの部下であった。
ステッセルはスミルノフの前任で、スミルノフ着任後に満州北方に移動するはずであったが、なぜか遼東半島全域の要塞地帯の「関東軍司令官」を任命され、そのまま旅順要塞に居座ってしまった。
必然的にステッセルは指揮に介入し、守備兵にとっては甚だ迷惑この上ない指揮権の争奪戦が行われ、これが後々第3軍が勝利を引き寄せる伏線にもなっている。
203高地が陥落し旅順艦隊が殲滅されたといっても、三大堡塁は今なお健在でありコンドラチェンコの闘争心は、いささかも衰えを知らず将兵を励まし続けた。
そして、この日は視察の他に将兵の一層の奮闘を鼓舞するため、激戦を潜り抜けた将兵に勲章を授けていた。
そこへ、偶然にも第3軍が放った28サンチ榴弾砲の砲弾がひゅるひゅると飛来し、その直撃を受けコンドラチェンコは戦死してしまった。
ロシア軍屈指の猛将の死は、司令官のステッセルばかりか多くの兵士にも稲妻のような衝撃が走り、ロシア軍の士気を著しく挫いた。
前の記事 屍山血河の203高地占領
番外編=機関砲=
旅順要塞陥落!につづく~
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