月乃和熊(ツキノワグマ)のささやき

歴史好きオヤジが細々と大震災、水害、雪害の復興花火や図書館の蔵書の支援を続けていまふ。

上野の山の彰義隊

2012-12-03 18:00:00 | 歴史こぼれ話
こんにちは、月乃和熊(ツキノワグマ)です!
  3.11東日本大震災 忘れない!風化させない!!
  
  月乃和熊(ツキノワグマ)も賛同しております

さてさて、ツタンカーメン展の順番を待つ間、上野の山を散策。3153(西郷さん)に続いては、彰義隊の話題であります
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上野の山の彰義隊

江戸城から見て鬼門にあたる上野の山に、黒衣の宰相といわれた天海僧正は、壮大な東叡山寛永寺を建立した。
現在の上野動物園、国立博物館、科学博物館や東京芸大。ツタンカーメン展が開催されている上野の森美術館も、すべて寛永寺の敷地だった。

その上野の山が、幕府を開いてから260余年、明治維新において上野の山も戦場になった。

寛永寺に最後の将軍徳川慶喜が、恭順を示し蟄居謹慎していたことで、将軍を慕いう幕臣や、薩長に不満を抱く佐幕派が上野の山に集結。
天野八郎等に率いられ、立て籠もった人数はおよそ3,000人。

勝海舟と西郷隆盛の談判による江戸城の無血開城も成し遂げたのだが、籠城軍に祭上げられてしまうことを恐れた慶喜は、さっさと日光東照宮に移った。

それにも関わらず籠城軍は山を下りなかったため、危険分子を殲滅するべく、長州の大村益次郎が指揮する新政府軍約10,000名は、慶応4年(1868)5月15日、雨にも関わらず朝7時ごろから激突した。

アームストロング砲を擁した政府軍の圧倒的な火力の前に、終始彰義隊は劣勢を余儀なくされ、夕方近くになって黒門口を破られた彰義隊は、その日の午後5時ごろに壊滅した。

黒門口は現在の上野広小路口付近、西郷さんの銅像が建つあたりにあったという。
また、戦死した彰義隊の遺体を火葬した場所が、西郷さんの銅像のすぐ後ろにある、彰義隊の墓となっている場所だそうだ。


その後日本は、いくつかの戦争を体験し、昭和20年には東京は空襲で焼け野原になった。
東京スカイツリーを見ることができる上野の山、動物園や様々な博物館に大勢の観光客が取り囲む大道芸。
まだまだ、3.11の東日本大震災の傷は癒えてはいないにも関わらず、忘れかけているかのような日本。
平和な日本の礎に、多くの犠牲があったことを忘れてはならない。

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