月乃和熊(ツキノワグマ)のささやき

歴史好きオヤジが細々と大震災、水害、雪害の復興花火や図書館の蔵書の支援を続けていまふ。

【乃木大将(4)】第1次旅順要塞総攻撃

2012-02-17 00:13:57 | 乃木大将
あ~~ついに、ついに約10年使ったデスクトップPCが
電源から煙が出て
壊れてしまった
悲しい・・・・
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第2次総攻撃  第3次総攻撃  28サンチ榴弾砲  旅順要塞降伏
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第1次旅順要塞総攻撃
「第3軍の目的は、なるべく速やかに旅順を攻略するにあり。
いかなる場合においても、第2軍の後方に陸上よりする敵の危害を及ばざる如くするを要す。」
大本営から上記の訓令を受け、大本営のみならずマスコミも国民の誰もが、3日から1週間程度で陥落し得ると思われていた乃木大将率いる第3軍の旅順要塞への総攻撃が、明治37年(1904)8月19日、ついに開始された。

ロシア軍は、旅順港を取り囲む山々に堅固な多数の堡塁を築き、第2軍と戦った金州城・南山からの退却部隊、大連から旅順にかけて山岳地帯で第3軍の進行戦での退却部隊を収容し兵力約44,000人、火砲においては、驚くべきことに日本軍が後から投入する28センチ榴弾砲によく似た、28センチ臼砲10門をすでに配備し、20センチ超の大口径の砲も含め約650門を配備、また水冷式で一度に200発を連射できるマキシム機関銃40余りで、第3軍を待ち受ける。

第3軍は兵力約51,000人(第1師団、第9師団、第11師団)、有坂砲とも呼ばれる口径7.5cmの31年式野砲、山砲約200門を中心に、攻城砲として期待した12サンチ、15サンチ砲など約180門、合計約380門の火砲と、空冷で一度に24発しか連射できないホチキス機関銃約50を保有しているものの、明らかに攻撃側の火力が劣ったまま、軍司令部を水師営から約4km後方の鳳凰山東方に据え、右翼に第一師団を中央に第9師団、左翼に第11師団を配置し砲撃を開始した。

 那須乃木神社の乃木将軍像

前哨戦
海軍陸戦重砲隊、陸軍の砲兵隊による8月19日と20日の二日間に渡る、断続的な攻撃準備射撃を開始するなか、後備歩兵第一旅団は203高地手前の174高地へ突撃を開始。
遮蔽物が少ないためロシア軍の狙い撃ちに遭いながらも翌20日朝には、この高地の占領に成功した。

第一師団は、19日深夜より鉢巻山への攻撃を開始するも、近隣の砲台からの十字砲火も加わる激しい銃砲火の前に損害が増大するばかりで、なす術がなく匍匐前進で張り付いているのがやっとの状態。

総攻撃
戦闘指揮所を、ロシア軍の射程内にある東北方面の堡塁からわずかに約3kmの団山子に設け、21日午前4時、第9師団と第11師団は砲兵の援護射撃を得ながら、東北正面 望台の占領を目指して堡塁群への総攻撃を開始した。

2日間に渡る激しい砲撃も砲の口径が小さいため、1.3mものべトンで鎧ろわれた永久要塞の前にさほどの効果はなかった。
その堡塁群を目指し、縦列で進撃をしたきた2個師団の日本軍将兵に、塹壕や堡塁で2日間の砲撃に耐えたロシア軍は、容赦ない一斉射撃、十字砲火での激しい銃砲撃を加える。
盤龍山攻略を目指していた第9師団第6旅団(歩兵第7、第35連隊で構成)の第7連隊は、攻撃開始からわずか1時間程度で壊滅してしまった。
第6旅団を率いる一戸兵衛少将は、第35連隊に突撃を命じるも機関銃になぎ倒され前進を阻まれたが、一旦退却し兵を立て直すと再び盤龍山 東堡塁に向け進撃を開始した。

第11師団は、旅順の三大堡塁と言われる最も守りの固い、松樹山、二龍山、東鶏冠山の内、鉄壁の東鶏冠山堡塁に挑んだ。
地雷原を超え、防盾を持って降り注ぐ弾丸、榴散弾の破片を防ぎつつ鉄条網にとりついたところで、恐るべき機関銃による一斉掃射、狙撃に見舞われる。
しかし日本軍将兵も、味方のホチキス機関銃の連射音に勇気を奮い起こし進撃する。
ようやく、鉄条網を突破して豪に入ったところで、銃眼を配した豪内部の部屋からの銃撃によって一掃され甚大な損害を被った。
ちなみに、よくテレビや映画などの日本軍の攻撃で、日本兵がバッタバッタと倒れるシーンは、特に守りの固い東鶏冠山 北堡塁への攻撃をモデルにしたものではないかと思います。

22日朝、第6旅団の工兵部隊が匍匐前進で機関銃陣地に近づき、銃眼から爆薬を投げ入れ機関銃陣地を爆破すると、それを合図に残存部隊が突撃し東堡塁を占領。
勢いに乗じた第6旅団は西堡塁をも攻撃し、ロシア軍陣地の望台を中心とした周りの砲台からの、雨霰と注がれる凄まじいい砲撃が続く中、夕方までに完全に占領した。

一戸少将は、継続して背後の望台を攻撃するも、兵は疲弊し砲弾も尽きてしまったことから、24日午後4時 乃木は望台からの退却を命じ、第1回総攻撃は終了した。
第3軍の戦果は、174高地と松樹山東西堡塁のわずか3拠点。
ロシア軍死傷者1,500人に対し、日本軍は死傷者約16,000人(戦死約5,000人)と一個師団がまるまる消滅するほどの損害を被り、まさに惨敗であった。

ロシア軍との兵力差
明治37年(1904)年の日本の人口は、約4,500万人でしかなく、対するロシアの人口は1億4千万人と日本の3倍強の人口でした。
ロシアとの開戦時、日本陸軍は13個師団しかなく(1個師団は約18,000人~20,000人)、騎兵、砲兵、工兵、輜重部隊やら全て含めても、25万人程度しか保有していなかったが旅順要塞への攻撃が開始されるころには、11個師団約20万人が大陸に渡った。

予備兵力として国内に留め置かれたのは、ウラジオストックなど北方からのロシア軍の侵攻に備えた、旭川第7師団と八甲田山死の行軍で有名な青森第8師団の2個師団40,000人弱であった。

開戦後まもなく日本軍は4個師団の新設に動き出すが、旅順攻囲戦が消耗戦の様相を呈してくると、予備兵力であった第7師団は第3軍に組み込まれ旅順攻囲戦に参戦。
第8師団は第2軍の予備兵力となり出征したため、慌てて2個師団を新設するが、この間国内の予備兵力がまったく無くなり、北方からの脅威に対しての国防は非常に危険な状況に陥る。

ロシア軍は、約130万人ともいわれる兵力を保有し、すでに50万人もの兵を送り込み、奉天会戦後なおも13万人の兵力を待機させ、直ちに輸送できる状態にあった。
仮に、日本軍が急遽新設する4個師団を出征させても最大で34万人程度でしかなく、兵力差は埋めようがない。
もし、ハルピンあたりが決戦場であったならば、日本軍の兵站は伸び切り補給はままならず、周到に準備されたロシア軍得意の陣地戦に引き込まれでもしたら、あるいは壊滅してしまったかもしれない。

どうしても有利な状態で早期に戦争を終結させ、講和に引き入れたい日本軍に、旅順攻囲戦における損害の増大は、戦争継続と終結に重大な影響を及ぼし始めた。

 那須乃木神社での神前挙式
おめでとう
末永くお幸せに

 前の記事 南山の戦いから始まった空前の消耗戦  
 第2次総攻撃(1)正攻法への転換へつづく~ 
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赤穂事件  乃木と赤穂事件
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大雪で腰痛でした(涙)

2012-02-13 22:26:26 | 旅行・散歩・日記
いや~大雪でした

平成24年2月4日(土)の19:30ごろ、新潟の親戚のおばあちゃんの訃報が入り、翌5日(日)の夜に新潟入りしました。

その時は、もう雪が止んでいましたが道路は雪でガタガタ。
でも、通夜の6日(月)と告別式の7日(火)は、雨だったので、だいぶ雪が消えて良い塩梅

と、油断したら・・・

朝は車が出せないほどの積雪で

そうしたら、また別の親戚が40代の若さで突然死

雪は夜も降り続け


故郷で2件の葬式に、大雪、毎日、毎日、雪かき
握力は無くなるは、腰は痛いは

車道(国道)が見えないほどの壁に・・・
そんでもって、やっと晴れ間を見て、磐越道から東北道を通ってやっと帰京してきたのであります

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【赤穂事件(5)】義士の墓は48基ある?!

2012-02-04 23:53:39 | 赤穂事件
泉岳寺から旧細川藩跡への小道に咲いていた牡丹

2月4日は、切腹した赤穂義士46名の命日
赤穂浪士は4ヶ所に別れて預けられていましたが、元禄16年(1703)2月4日
幕府により切腹を命じられ、その後直ちに泉岳寺に葬られました。



1.肥後熊本藩 細川家の下屋敷(現東京都港区高輪)
大石内蔵助   45歳 家老(1500石)
吉田忠左衛門  63歳 加東郡代・足軽頭(200石役料50石)◆吉田沢右衛門の父
原惣右衛門   56歳 足軽頭・鉄砲頭(300石)◆岡島八十右衛門の兄
片岡源五右衛門 37歳 側用人・小姓頭(350石)
間瀬久太夫   63歳 目付(200石)◆間瀬孫九郎の父
小野寺十内   61歳 京都留守居役(150石役料70石)◆小野寺幸右衛門の養父
間喜兵衛    69歳 馬廻・勝手方吟味役(100石)◆間十次郎の父
礒貝十郎左衛門 25歳 物頭・側用人(150石)
堀部弥兵衛   77歳 元江戸留守居役(300石・隠居料20石)◆堀部安兵衛の義父
近松勘六    34歳 馬廻(250石)◆奥田貞右衛門は弟
富森助右衛門  34歳 馬廻・使番・江戸詰(200石)
潮田又之丞   35歳 郡奉行・国絵図奉行(200石)  
早水藤左衛門  40歳 馬廻(150石)
赤埴源蔵    35歳 馬廻・江戸詰(200石)
奥田孫太夫   57歳 武具奉行・江戸詰(150石)
矢田五郎右衛門 29歳 馬廻・江戸詰(150石)
大石瀬左衛門  27歳 馬廻(150石)
17名

2.伊予松山藩 松平家の三田中屋敷(東京都港区三田2丁目)
大石主税    16歳 部屋住み ◆大石内蔵助は父
堀部安兵衛   34歳 馬廻・江戸留守居役(200石)◆堀部弥兵衛は義父
木村岡右衛門  46歳 馬廻・絵図奉行(150石)
中村勘助    48歳 馬廻・祐筆頭(100石)
菅谷半之丞   44歳 馬廻・郡代(100石)
千馬三郎兵衛  51歳 馬廻(30石)
不破数右衛門  34歳 元馬廻・浜辺奉行(元100石)
大高源五    32歳 金奉行(20石5人扶持)◆小野寺幸右衛門は弟
貝賀弥左衛門  54歳 中小姓近習・蔵奉行(2石10両3人扶持)◆吉田忠左衛門は兄
岡野金右衛門  24歳 部屋住み ◆小野寺十内は伯父
10名

3.三河国岡崎藩 水野家の中屋敷跡(東京都港区芝5丁目)
間十次郎    26歳 部屋住み ◆間喜兵衛は父
奥田貞右衛門  26歳 加東郡勘定方(9石3人扶持)◆奥田孫太夫は義父・近松勘六は兄
矢頭右衛門七  18歳 部屋住み
村松三太夫   27歳 部屋住み ◆父は村松喜兵衛
間瀬孫九郎   23歳 部屋住み ◆父は間瀬久太夫
茅野和助    37歳 横目付(5両3人扶持)
横川勘平    37歳 徒目付(5両3人扶持)
三村次郎左衛門 37歳 酒奉行・台所役人(7石2人扶持)
神崎与五郎   38歳 横目付・郡目付(5両3人扶持)
9名

4.長門長府藩 毛利家の元麻布上屋敷(東京都港区六本木6丁目 毛利庭園)
岡島八十右衛門 38歳 札座勘定奉行(20石5人扶持)◆原惣右衛門は兄
吉田沢右衛門  29歳 中小姓近習(13両3人扶持)◆父は吉田忠左衛門
武林唯七    32歳 馬廻・中小姓近習(15両3人扶持)
倉橋伝助    34歳 扶持奉行・中小姓・江戸詰(20石5人扶持)
村松喜兵衛   62歳 扶持奉行・江戸詰(20石5人扶持)◆村松三太夫の父
杉野十平次   28歳 札座横目(8両3人扶持)
勝田新左衛門  24歳 中小姓近習・札座横目(15石3人扶持)
前原伊助    40歳 中小姓・金奉行・江戸詰(10石3人扶持)
小野寺幸右衛門 28歳 部屋住み ◆小野寺十内は養父・大高源吾は兄
間新六     24歳 部屋住み ◆間喜兵衛は父
10名


墓は48基
泉岳寺の墓には、切腹した46名の他に天寿を全うした寺坂吉右衛門(享年83歳 吉田忠左衛門附足軽 3両2分2人扶持)の供養墓と、討ち入り前に切腹した萱野三平(享年28歳 中小姓 12両2分3人扶持)の供養墓があり、全部で48基あります。

身分に応じて分けられていた
100石以上の上士は22名(不破数右衛門を含む)、30石以下の下士17名、部屋済みは7名。
身分の高かった者が細川家と松平家に預けられ、身分の低い者のは水野家と毛利家に預けられていたことがわかる。

30代の参加が最も多い
10代 2人 、 20代 13人 、 30代 15人 、 40代 6人
50代 4人 、 60代  5人 、 70代  1人



それにしても寺坂吉右衛門の俸禄、3両2分2人扶持とはどのくらいの給与なのであろうか。
1人扶持=1石8斗 、 1石=1両 、 1両=10万円 、1分=1両の4分の1
として現在の金額に計算してみると、
扶持米:2人扶持=3石6斗=3.6両
現金 :3両2分=3.5両
3.6両+3.5両=6.1両=61万円
年収わずかに 61万円!これで、暮らしていけたのであろうか。。。

泉岳寺の大石内蔵助像
近くの保安寺で見つけた小地蔵様

【赤穂事件(6)】みちくさ=回向院= 2012-02-18 につづく~
前の記事 【赤穂事件(4)】なぜ内匠頭は上野介を仕留められなかったのか? 2011-12-27

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東京空襲の傷あとから

2012-02-02 23:41:39 | 歴史こぼれ話
          鳥を狙う野良にゃん

戦中の東京都の人口は、昭和15年(1940)~19年(1944)までの5年間、戦争中でありながらも、約720万人~約730万人で安定していた。
ところが、終戦の昭和20年(1945)の人口は、348万人余りにまで減少している。

1944年11月から、一番被害の大きかった1945年3月10日の東京大空襲をはじめ終戦直前まで、東京は毎日のように空襲被害を受け、疎開が進んだこともあったが、人口減少率は実に-52%!!に達した。

67年前、東京都は空襲で、焼夷弾で焼き尽くされ、確かに一度壊滅的被害を受けた。
ようやく戦中の人口に回復したのは、昭和28年(1953)。
実に7年をかけ、740万人余りにまで人口が回復した。
その後はドル高円安の追い風を受け、東京オリンピックを経て高度経済成長を遂げ、平成21年の東京都の人口は約1298万人、戦中の約1.8倍。終戦時の3.7倍である!


  表参道の山陽堂書店さん
  戦前に建てられ昭和20年5月の空襲では、大勢の人を助け炎に耐え抜いた
  国道246号線の拡幅工事で削られたそうですが、戦災の生き証人です


webで公開されている東京都内の航空写真をみると、都内はすべて焼き尽くされているように見える。
しかし、街をぶらりと歩いてみると、所々で戦災を耐え抜いた跡を見つけることもできる。

JR山手線 大塚駅のほど近くにある天祖神神社の境内には、炎に晒され半分焼け焦げたながらも、なお現在まで67年間を生き抜いている樹齢600年以上とも言われている、夫婦公孫樹(いちょう)を見ることができる。
 天祖神神社の夫婦公孫樹

 左半分が焼けた公孫樹。


そういう意味では、奇跡の一本松は塩水につかっていたために、本当に残念なことでしたが、
一人一人のシンボル、希望となってる物が必ず残っていると思います。

時間はかかるだろう。
どんな言葉にも、癒されることはないかもしれません。
小さな希望かもしれません。でも、信じて見守っています。