あ~~ついに、ついに約10年使ったデスクトップPCが
電源から煙が出て
壊れてしまった
悲しい・・・・
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第2次総攻撃 第3次総攻撃 28サンチ榴弾砲 旅順要塞降伏
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第1次旅順要塞総攻撃
「第3軍の目的は、なるべく速やかに旅順を攻略するにあり。
いかなる場合においても、第2軍の後方に陸上よりする敵の危害を及ばざる如くするを要す。」
大本営から上記の訓令を受け、大本営のみならずマスコミも国民の誰もが、3日から1週間程度で陥落し得ると思われていた乃木大将率いる第3軍の旅順要塞への総攻撃が、明治37年(1904)8月19日、ついに開始された。
ロシア軍は、旅順港を取り囲む山々に堅固な多数の堡塁を築き、第2軍と戦った金州城・南山からの退却部隊、大連から旅順にかけて山岳地帯で第3軍の進行戦での退却部隊を収容し兵力約44,000人、火砲においては、驚くべきことに日本軍が後から投入する28センチ榴弾砲によく似た、28センチ臼砲10門をすでに配備し、20センチ超の大口径の砲も含め約650門を配備、また水冷式で一度に200発を連射できるマキシム機関銃40余りで、第3軍を待ち受ける。
第3軍は兵力約51,000人(第1師団、第9師団、第11師団)、有坂砲とも呼ばれる口径7.5cmの31年式野砲、山砲約200門を中心に、攻城砲として期待した12サンチ、15サンチ砲など約180門、合計約380門の火砲と、空冷で一度に24発しか連射できないホチキス機関銃約50を保有しているものの、明らかに攻撃側の火力が劣ったまま、軍司令部を水師営から約4km後方の鳳凰山東方に据え、右翼に第一師団を中央に第9師団、左翼に第11師団を配置し砲撃を開始した。
那須乃木神社の乃木将軍像
前哨戦
海軍陸戦重砲隊、陸軍の砲兵隊による8月19日と20日の二日間に渡る、断続的な攻撃準備射撃を開始するなか、後備歩兵第一旅団は203高地手前の174高地へ突撃を開始。
遮蔽物が少ないためロシア軍の狙い撃ちに遭いながらも翌20日朝には、この高地の占領に成功した。
第一師団は、19日深夜より鉢巻山への攻撃を開始するも、近隣の砲台からの十字砲火も加わる激しい銃砲火の前に損害が増大するばかりで、なす術がなく匍匐前進で張り付いているのがやっとの状態。
総攻撃
戦闘指揮所を、ロシア軍の射程内にある東北方面の堡塁からわずかに約3kmの団山子に設け、21日午前4時、第9師団と第11師団は砲兵の援護射撃を得ながら、東北正面 望台の占領を目指して堡塁群への総攻撃を開始した。
2日間に渡る激しい砲撃も砲の口径が小さいため、1.3mものべトンで鎧ろわれた永久要塞の前にさほどの効果はなかった。
その堡塁群を目指し、縦列で進撃をしたきた2個師団の日本軍将兵に、塹壕や堡塁で2日間の砲撃に耐えたロシア軍は、容赦ない一斉射撃、十字砲火での激しい銃砲撃を加える。
盤龍山攻略を目指していた第9師団第6旅団(歩兵第7、第35連隊で構成)の第7連隊は、攻撃開始からわずか1時間程度で壊滅してしまった。
第6旅団を率いる一戸兵衛少将は、第35連隊に突撃を命じるも機関銃になぎ倒され前進を阻まれたが、一旦退却し兵を立て直すと再び盤龍山 東堡塁に向け進撃を開始した。
第11師団は、旅順の三大堡塁と言われる最も守りの固い、松樹山、二龍山、東鶏冠山の内、鉄壁の東鶏冠山堡塁に挑んだ。
地雷原を超え、防盾を持って降り注ぐ弾丸、榴散弾の破片を防ぎつつ鉄条網にとりついたところで、恐るべき機関銃による一斉掃射、狙撃に見舞われる。
しかし日本軍将兵も、味方のホチキス機関銃の連射音に勇気を奮い起こし進撃する。
ようやく、鉄条網を突破して豪に入ったところで、銃眼を配した豪内部の部屋からの銃撃によって一掃され甚大な損害を被った。
ちなみに、よくテレビや映画などの日本軍の攻撃で、日本兵がバッタバッタと倒れるシーンは、特に守りの固い東鶏冠山 北堡塁への攻撃をモデルにしたものではないかと思います。
22日朝、第6旅団の工兵部隊が匍匐前進で機関銃陣地に近づき、銃眼から爆薬を投げ入れ機関銃陣地を爆破すると、それを合図に残存部隊が突撃し東堡塁を占領。
勢いに乗じた第6旅団は西堡塁をも攻撃し、ロシア軍陣地の望台を中心とした周りの砲台からの、雨霰と注がれる凄まじいい砲撃が続く中、夕方までに完全に占領した。
一戸少将は、継続して背後の望台を攻撃するも、兵は疲弊し砲弾も尽きてしまったことから、24日午後4時 乃木は望台からの退却を命じ、第1回総攻撃は終了した。
第3軍の戦果は、174高地と松樹山東西堡塁のわずか3拠点。
ロシア軍死傷者1,500人に対し、日本軍は死傷者約16,000人(戦死約5,000人)と一個師団がまるまる消滅するほどの損害を被り、まさに惨敗であった。
ロシア軍との兵力差
明治37年(1904)年の日本の人口は、約4,500万人でしかなく、対するロシアの人口は1億4千万人と日本の3倍強の人口でした。
ロシアとの開戦時、日本陸軍は13個師団しかなく(1個師団は約18,000人~20,000人)、騎兵、砲兵、工兵、輜重部隊やら全て含めても、25万人程度しか保有していなかったが旅順要塞への攻撃が開始されるころには、11個師団約20万人が大陸に渡った。
予備兵力として国内に留め置かれたのは、ウラジオストックなど北方からのロシア軍の侵攻に備えた、旭川第7師団と八甲田山死の行軍で有名な青森第8師団の2個師団40,000人弱であった。
開戦後まもなく日本軍は4個師団の新設に動き出すが、旅順攻囲戦が消耗戦の様相を呈してくると、予備兵力であった第7師団は第3軍に組み込まれ旅順攻囲戦に参戦。
第8師団は第2軍の予備兵力となり出征したため、慌てて2個師団を新設するが、この間国内の予備兵力がまったく無くなり、北方からの脅威に対しての国防は非常に危険な状況に陥る。
ロシア軍は、約130万人ともいわれる兵力を保有し、すでに50万人もの兵を送り込み、奉天会戦後なおも13万人の兵力を待機させ、直ちに輸送できる状態にあった。
仮に、日本軍が急遽新設する4個師団を出征させても最大で34万人程度でしかなく、兵力差は埋めようがない。
もし、ハルピンあたりが決戦場であったならば、日本軍の兵站は伸び切り補給はままならず、周到に準備されたロシア軍得意の陣地戦に引き込まれでもしたら、あるいは壊滅してしまったかもしれない。
どうしても有利な状態で早期に戦争を終結させ、講和に引き入れたい日本軍に、旅順攻囲戦における損害の増大は、戦争継続と終結に重大な影響を及ぼし始めた。
那須乃木神社での神前挙式
おめでとう
末永くお幸せに
前の記事 南山の戦いから始まった空前の消耗戦
第2次総攻撃(1)正攻法への転換へつづく~
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赤穂事件 乃木と赤穂事件
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第2次総攻撃 第3次総攻撃 28サンチ榴弾砲 旅順要塞降伏
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「第3軍の目的は、なるべく速やかに旅順を攻略するにあり。
いかなる場合においても、第2軍の後方に陸上よりする敵の危害を及ばざる如くするを要す。」
大本営から上記の訓令を受け、大本営のみならずマスコミも国民の誰もが、3日から1週間程度で陥落し得ると思われていた乃木大将率いる第3軍の旅順要塞への総攻撃が、明治37年(1904)8月19日、ついに開始された。
ロシア軍は、旅順港を取り囲む山々に堅固な多数の堡塁を築き、第2軍と戦った金州城・南山からの退却部隊、大連から旅順にかけて山岳地帯で第3軍の進行戦での退却部隊を収容し兵力約44,000人、火砲においては、驚くべきことに日本軍が後から投入する28センチ榴弾砲によく似た、28センチ臼砲10門をすでに配備し、20センチ超の大口径の砲も含め約650門を配備、また水冷式で一度に200発を連射できるマキシム機関銃40余りで、第3軍を待ち受ける。
第3軍は兵力約51,000人(第1師団、第9師団、第11師団)、有坂砲とも呼ばれる口径7.5cmの31年式野砲、山砲約200門を中心に、攻城砲として期待した12サンチ、15サンチ砲など約180門、合計約380門の火砲と、空冷で一度に24発しか連射できないホチキス機関銃約50を保有しているものの、明らかに攻撃側の火力が劣ったまま、軍司令部を水師営から約4km後方の鳳凰山東方に据え、右翼に第一師団を中央に第9師団、左翼に第11師団を配置し砲撃を開始した。
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海軍陸戦重砲隊、陸軍の砲兵隊による8月19日と20日の二日間に渡る、断続的な攻撃準備射撃を開始するなか、後備歩兵第一旅団は203高地手前の174高地へ突撃を開始。
遮蔽物が少ないためロシア軍の狙い撃ちに遭いながらも翌20日朝には、この高地の占領に成功した。
第一師団は、19日深夜より鉢巻山への攻撃を開始するも、近隣の砲台からの十字砲火も加わる激しい銃砲火の前に損害が増大するばかりで、なす術がなく匍匐前進で張り付いているのがやっとの状態。
総攻撃
戦闘指揮所を、ロシア軍の射程内にある東北方面の堡塁からわずかに約3kmの団山子に設け、21日午前4時、第9師団と第11師団は砲兵の援護射撃を得ながら、東北正面 望台の占領を目指して堡塁群への総攻撃を開始した。
2日間に渡る激しい砲撃も砲の口径が小さいため、1.3mものべトンで鎧ろわれた永久要塞の前にさほどの効果はなかった。
その堡塁群を目指し、縦列で進撃をしたきた2個師団の日本軍将兵に、塹壕や堡塁で2日間の砲撃に耐えたロシア軍は、容赦ない一斉射撃、十字砲火での激しい銃砲撃を加える。
盤龍山攻略を目指していた第9師団第6旅団(歩兵第7、第35連隊で構成)の第7連隊は、攻撃開始からわずか1時間程度で壊滅してしまった。
第6旅団を率いる一戸兵衛少将は、第35連隊に突撃を命じるも機関銃になぎ倒され前進を阻まれたが、一旦退却し兵を立て直すと再び盤龍山 東堡塁に向け進撃を開始した。
第11師団は、旅順の三大堡塁と言われる最も守りの固い、松樹山、二龍山、東鶏冠山の内、鉄壁の東鶏冠山堡塁に挑んだ。
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しかし日本軍将兵も、味方のホチキス機関銃の連射音に勇気を奮い起こし進撃する。
ようやく、鉄条網を突破して豪に入ったところで、銃眼を配した豪内部の部屋からの銃撃によって一掃され甚大な損害を被った。
ちなみに、よくテレビや映画などの日本軍の攻撃で、日本兵がバッタバッタと倒れるシーンは、特に守りの固い東鶏冠山 北堡塁への攻撃をモデルにしたものではないかと思います。
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勢いに乗じた第6旅団は西堡塁をも攻撃し、ロシア軍陣地の望台を中心とした周りの砲台からの、雨霰と注がれる凄まじいい砲撃が続く中、夕方までに完全に占領した。
一戸少将は、継続して背後の望台を攻撃するも、兵は疲弊し砲弾も尽きてしまったことから、24日午後4時 乃木は望台からの退却を命じ、第1回総攻撃は終了した。
第3軍の戦果は、174高地と松樹山東西堡塁のわずか3拠点。
ロシア軍死傷者1,500人に対し、日本軍は死傷者約16,000人(戦死約5,000人)と一個師団がまるまる消滅するほどの損害を被り、まさに惨敗であった。
ロシア軍との兵力差
明治37年(1904)年の日本の人口は、約4,500万人でしかなく、対するロシアの人口は1億4千万人と日本の3倍強の人口でした。
ロシアとの開戦時、日本陸軍は13個師団しかなく(1個師団は約18,000人~20,000人)、騎兵、砲兵、工兵、輜重部隊やら全て含めても、25万人程度しか保有していなかったが旅順要塞への攻撃が開始されるころには、11個師団約20万人が大陸に渡った。
予備兵力として国内に留め置かれたのは、ウラジオストックなど北方からのロシア軍の侵攻に備えた、旭川第7師団と八甲田山死の行軍で有名な青森第8師団の2個師団40,000人弱であった。
開戦後まもなく日本軍は4個師団の新設に動き出すが、旅順攻囲戦が消耗戦の様相を呈してくると、予備兵力であった第7師団は第3軍に組み込まれ旅順攻囲戦に参戦。
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