Think Globally, Act Regionally:『言葉の背景、カルチャーからの解放、日本人はどこへ往く』

身のまわりに見受けられるようになった「グローバル化」と生きる上での大事な「こころの健康」。さまざまな観点から考えます。

●第5回「冷泉彰彦さんの視点と日本文化」

2007-04-09 12:51:55 | ■カルチャからの解放

●第5回「冷泉彰彦さんの視点と日本文化」

作家冷泉彰彦(米国ニュージャージー州在住)氏は、
JMM『from 911/USAレポート』 
第294回「自己都合か強制か」の中で、

『アメリカの場合は「人間が半強制的な住居移動を伴う転勤を命令されることはない」ということと、「チャンスを求めての移動は本人が自分のコストで胸を張って行う」という発想が確立していると言って構わないと思います。』に続けて、日本の雇用慣行の中にある「会社都合」と「自己都合」に触れ、海外での日本外務省による日本人の取り扱われ方、従軍慰安婦連行の問題などが、自己都合か強制かの視点で述べられています。

さて、冷泉さんの分析の視点にはいつも新鮮さを感じている者ですが、特に、海外での日本人の取り扱われ方について、もう一つの視点で、述べたいと思います。

■自分の意思で国を出た人には、同情をしない。一方、会社(組織)派遣で、つまり、自分の意思ではなく、会社や組織というグループからの命令で派遣された人には、同情の余地がある。それに、会社員は また日本へ帰る予定があるから、もとのグループへと戻れる。
これは、従来から言われている、「内と外の論理」、つまり、日本国というグループを出るか、出ないかという、判断が隠されているような気がします。

江戸時代には「脱藩」と言う言葉がありました。これは、武士が藩から脱して浪人となることを示し、浪人という言葉は、「古代、本籍地を離れ他国を流浪する者。浮浪人」と広辞苑ではネガティブなイメージとして定義されています。会社(組織)の命令ではなく、自己意思で、一度日本国というグループを出た人は、グループ外の人となってしまうようです。
言い換えると、「内部者(日本国内にいる日本人)」対「部外者(日本国外にいる日本人および外国人)」という暗黙の了解(区別)があるようです。

外国人(籍)ということだけで、内部者になることが非常に難しい日本社会。例えば、ドナルドキーンさんの話は衝撃的でした。また、一度日本を出て、海外で活躍する研究者に対する評価基準など、日本の権威主義的な風土との闘いは想像以上のものがあります。例えば、古くなりますが、都留重人氏と森嶋通夫氏の論争など。

「同じ土俵で話をする」、「外野が何を言うか」というのは、よく聞かれる言葉です。G.ホフステードを出すまでもなく、「集団主義と個人主義」の違いがあるのだから、しょうがない、「権威に従順か批判的か」というのは、ある種のDNAに組み込まれたものだから、何を言っても変わらないよ、という意見をよく聞きます。

つまり、日本の土俵とは、
「村のルールに従えば、共同責任(責任の所在があいまい)。自由意思による自己責任は、別の土俵だよ。」ということにおちつきそうですね。

でも、そろそろ、
「自分の頭で考え、自分の判断によって行動する、自律した市民」(司馬遼太郎)の誕生が求められているような気がしますが、いかがでしょう。

※写真は、JMM(Japan Mail Media)のFront Web pageのロゴを使用した。

参照:
from 911/USAレポート/冷泉彰彦
 2007年3月17日発行JMM [Japan Mail Media]                 No.418SaturdayEdition   http://ryumurakami.jmm.co.jp/dynamic/report/title3_1.html
ドナルドキーン「日本との出会い」 中央公論新社 文庫 (1975.1)
G・ホフステード「多文化世界-違いを学び共存への道をさぐる」(岩井紀子・岩
井八郎訳)有斐閣(1995.2)

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