日々是好日

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猿丸神社の紅葉

2018年12月12日 | 日記


 わが町金沢は、二つの川の織り成す二つの低地と三つの台地からなっています。その真ん中の小立野台地に私は今住んでいます。そこから文豪・室生犀星、最近読まれる方はあまりいないと思われますので、知る人ぞ知るかもしれませんが、とにかくその室生犀星ゆかりの犀川、もちろん二つの低地の一つで金沢最大の川の犀川、そこに向かう台地の端・低地の始まり、に猿丸神社があります。祭神は三十六歌仙の一人猿丸太夫で、約千年前平安時代の創建だそうです。境内は樹齢何百年という欅を中心とした杜でモミジの木も何本かあります。この神社の近くを先日通りかかったのですが、あまりに紅葉が見事なので、それをカメラに収めました。
 今は全くの町の中ですが、私の小中学生時代までは周りはすべて田んぼで、村の鎮守様という雰囲気のお社で、小学校の理科の解剖実験のためのカエルをこの辺りで捕まえたことをいつも思い出します。やむを得なかったとはいえ、可哀そうなことをしました。あんな授業がなくなったのは、子供たちにはいいことなんだと思います。もっとも当時は、あんまり罪の意識はなかったというか、なんにも考えていなかったと思います

 わたしの中学生の頃から、お社の脇を通って町の中心繁華街に通じる道路の建設が始まり、高校の時には、通学途中となりましたこのお社近辺は、開発が進んでいてお店も大分出来ておりました。自転車通学だったのですが、住んでいた(今も住んでいます。途中、京都・大阪時代が長いのですが)小立野台地から犀川低地に一気に下り、そこから今度は、寺町台地、加賀藩の方針でお寺が集められ、今もお寺が集中している台地に向かって急坂を登る。帰りは、その反対に坂を下り、上りを毎日繰り返していたものです。毎日自然に鍛えられていましたから、体力ありましたよ。ああー、昭和は遠くなりました。
 

 このお社のすぐ近く、まさに私の通学路に面して、当時一軒のお店が出来ました。五人も入れば満員のステーキ専門店です。このお店が、すこぶる美味しくて、予約も取れないくらいの評判店だというのです。外見はどう見たってそうは思えないのです。なにしろ小ぶりのお店で、看板が出ていないのです。(ちなみに、現在は看板が出ています)通学仲間みんな、あそこの事じゃないよな、あんな小さいはずないよな(お店には失礼なんですが、高校生のことだとお許し願って。)と、どうしても信じれませんでした。当時、まだステーキって何、少なくとも私の仲間たちは、多分ステーキってよくわかっていない、ただ美味しいものだってよ、くらいの認識しかなかったからということもあったからかもしれません。大学生になって金沢を離れ、そのステーキ屋さんとは縁がないままに今に至っています。今もお店は健在で、外見は、昔とあまり変わっていないように思います。オーナー・シェフは相当なお歳のはずですが、ますます評判で、半年前でも予約は取れないと聞いています。テレビにも取り挙げられておりました。店内の壁に貼られているお品書きが小さくて、字が読み取れないくらいなのですが、お店を相対的に大きく見せるためだと、シェフご自身がテレビでおっしゃられておりました。
 一度は行きたいと思いながらも、まだ果たせずにおります。ところがですね、先日、妹に聞いたのですが、なんと、父が何度も行っていたというではありませんか。自分一人でいい思いをしていたなんて、全く想像もしていませんでした。そういえば、お寿司の名店にもよく出かけていたらしいのです。ステーキ店もお寿司屋さんも、その他、多分いろいろな名店に行ってたと思うのですが、一度たりとも連れて行ってもらったことなどありません。文句を言いたいところですが、父は何年も前に亡くなっていますから、今更ですね。もっとも、私は、回転寿司でも十分に美味しくいただけますから、ここで書いてるほどには、恨んではいないですよ。声を大にして言いたい、恨んではいない。でも、あのステーキ屋さん、どれほど美味しいのかなー


若冲展覧会

2018年07月06日 | 日記

 石川県立美術館の若冲展を見てきました。
 東京都美術館で2016年に開催された「若冲展」も、同年の京都市美術館での生誕300年「若冲の京都 KYOTOの若冲」も行くことが出来ませんでしたので、金沢で若冲が見られるとあっては、これはもう見逃すわけにはいきません。
 
 狩野博幸さんの「若冲」も、澤田瞳子さんの「若冲」もすでに読了して事前の知識もしこたま仕入れ、もう伊藤若冲は他人ではありません。最近再発見されたとか、絵を描くことだけに没頭した金持ちの趣味人などという陳腐な過去の知識はもうすでに廃棄処分としました。家業の青物問屋「桝源」の経営を立派に切り盛りし、40歳で家督を弟に譲ってからも、錦市場の営業認可をめぐっての幕府の小役人からの横車には死の危険さえも顧みずに先頭に立って跳ね返し、85歳(実際は83歳)まで多くの独創的な絵を描き続けた若冲。

 狩野博幸さんの講演は当日の入場整理券にあぶれて聞くことが出来なかったので、日をあらためて7/2に、展示品の鑑賞だけのために石川県立美術館に行ってきました。東京の若冲展の5時間待ちなどという報道を見ていましたので、ある程度の覚悟がありましたが、待ち時間などなく、列を作ることもなく、ゆっくりと涼しく快適に鑑賞できました。ただ、若冲から想像できる色鮮やかさはあまりなく、むしろ淡彩さが目立つ展示でした。若冲ときたら「動植綵絵」と私なんかは思うのですが、そういった着色の作品がごく少なく、ほとんどが墨画だったせいですが、まあそういった作品が少なかったので、入場者が思ったほどではなく、ゆったりと鑑賞できたと有難いと思うべきなんでしょうね。堪能するところまでゆくには、やっぱり東京か京都にでも出かけるしかないということだと思いますが、今回は若冲にほんのちょっと触れたぐらい、若冲入門くらいの感じですね。
 数少ない着色の鶏画の色彩の鮮明さや描写の繊細さにはさすが若冲!、私の想像していた若冲や!と思わされましたが、38点の作品をずっと鑑賞しているうちに、ほとんどすべての展示作品にある「若冲居士」という丸い落款が、頭の中でやたらに大きく印象に残ったという感じがありました。今度鑑定の依頼が来たら、きっと役立つと思うのですが、・・・そんなこと、あるはずないか!
 
 美術館を出ましたら、一気に熱気が襲ってきました。何しろこの日は35℃もあったんです。石川県立美術館は金沢の超有名な特別名勝「兼六園」のすぐお隣の「本多の森公園」の一角にあり、国立近代美術館工芸館の移転工事も進められていて、21世紀美術館や県立歴史博物館も近いという金沢を代表する緑豊かな涼やかなところなんですが、そんな周りの雰囲気も、先ほどの若冲の余韻を感じる余裕もすっ飛び、即、駐車場の車に逃げ込みました。家に帰ってもまだ車が冷えていないくらいの暑さでした。もっとも、家まで歩いても10分くらいですから、冷える間もなかったということもあるのですが。
 
 若冲は、また、今度ゆっくりと考えて報告させていただこうと思っています。
 そうそう、この展覧会は本当は「若冲と光瑤」という展覧会です。光瑤はお隣、富山県出身の日本画家ということですが、彼に関しましてもまた次の機会にということで、それまでに勉強しておこうと思っています。

大乗寺丘陵公園のツツジ

2018年05月04日 | 日記


 ゴールデンウィーク中の4/29、金沢市の山側環状道路沿いの大乗寺丘陵公園に寄ってきました。
 ここは「金沢の南部に広がる丘陵地帯。その豊かな緑を復元し、永く未来に継承するために整備された金沢を代表する公園(総合公園)です。眼下に金沢の街が広がり、晴れた日には日本海まで見渡すことのできる壮大な眺望。ツツジをはじめ、ウメ、アジサイ、ツバキ、サクラなど、四季の移ろいを感じさせてくれる色とりどりの花木。広い空と豊かな森に囲まれた、ゆったりとした時が流れる公園です。」と金沢市の公式ホームページにある通りの公園ですが、何といっても5品種、約13,000株植えられているというツツジが目玉で、寄り道するという感じがふさわしいくらいに金沢市民には手軽な位置にあります。そこに、ふっと思いついてまさに寄ってきました。開花を待つばかりの蕾が鈴なりで、最盛期にはあと1週間くらいでしたが、それでも十分に見ごたえがありました。
 大乗寺は曹洞宗のお寺で、その門前につながる丘陵に公園が整備されたのですが、私の中学高校時代は、その一角が市民の憩いのスキー場でした。林が途切れていて、障害となる木々がない緩やかな斜面がある程度広がっていて、雪が積もれば滑ることができるというただそれだけのスキー場。もちろんリフトなんてなく、利用者が勝手にスキー場と呼んでいただけかもしれません。
  中学からスキーを始めた私にとっては初めてのスキー場。転倒した斜面で大の字になって真っ青な空を見上げると、そこには一点、プロペラの飛行機。いつの日かこんな光景を思いだす日が来るかなーと考えたことがありましたが、50年たった今そのことを思い出します。のんびりとしたスキー場でしたね。
 他にも、市民憩いの、お花見紅葉狩りの卯辰山にスキー場が2つありました。一つは、めちゃめちゃな急斜面を備えていて、市の中学生スキー大会が開催されていて、出場した私はもちろんその急斜面で転倒、途中棄権。そこを無事に通過できれば入賞というそれくらいの急斜面で、ほんまにここを滑るのという感じでした。今はその急斜面が花壇として整備されていて、昔ここを滑ったもんだといっても女房なんか信用してくれません。「記憶が跳んでて、どっか他の場所と混同してるんとちゃうの」といいます。そうです妻は関西人です。
 中学高校とスキー部で鳴らした私も、大学は京都で、スキーを続けるには遠征その他でお金がかかりすぎるので、クラブは軟式野球。今は野球も結構お金がかかるようですが、当時、今ほどではなかったですからね。最近では、どんなスポーツも、ちょっと本格的にやろうとするとお金がかかりすぎて、ある程度裕福じゃないと不可能。こんなところにも社会の階層分化の波がうかがえて、日本のスポーツ界の将来が不安です。

 大学が京都という関係で、妻は関西人。私も関西に長くいましたからある程度関西弁が残っています。なので、娘たちは金沢育ちですが、結構関西弁が混ざります。みんなして、「こんなとこでスキーなんかできるわけあらへん。絶対ちゃうわ」といいます。けど、「絶対ここやったがやー」と私は、もともとの金沢弁で言い返しています。でも、今見てもあまりの急斜面なので、ひょっとして思い違いかなーなんて考えてしまいます。一番上の方の小屋で、スキーの後でよく食べていたうどんの美味しかったこと。もちろん、「掛けうどん」。関西では「すうどん」ともいいまんな。逆で、関西が「掛けうどん」でしたっけ。どっちにしろ、その小屋は今はもう、痕跡すら見られへんなー、ここじゃなかんたんかなー、いやそんなはずあらへんと思うがや。


不意を突かれた大雪

2018年01月14日 | 日記


 ここ三日間ほどの金沢は久しぶりの大雪に見舞われました。
 積雪量が30㎝を超えるのは6年振りとのことで、13日には62㎝にもなりました。地球温暖化を実感するくらいに雪の少ない暖かい冬が最近では当たり前で、特に金沢は、お隣の福井や富山に比しても雪が少なくて、例年「気の毒にな―」なんて私なんぞはちょっと優越感に浸っていたのですが、不意を突かれた感じで、雪よかしにもう―大変で、あらためて雪国だったことを思い知らされました。
 北海道や東北などもっと寒い地方では雪掻きというそうですが、金沢では、湿った重い雪ですので雪よかしといい、「どっこらしょ」という感じで雪を運びます。高齢者にはきつい作業で、「もとはといえばただの水の癖に」と心の中で悪態をつきながら、ようやくの思いで車を出せるように雪よかしをしました。中学生のころには38豪雪なんてあったりして、これくらいの雪は普通だったように思うのですが、雪の少ない冬に慣れっこになっていたせいでいささか甘く見ていました。自然には逆らえないですね。
 14日午後にはようやく雪がやみ、15日は朝から青空が広がりました。
 しばらくぶりの好天で、午前中は仕事もありませんでしたので、近くの兼六園と金沢城公園に雪見に出かけました。足元の雪が「きんかなまなま」で滑らないように気を付けながら歩きましたので、すごく時間はかかりました。「きんかなまなま」というのは、降り積もった雪が少し溶けだし、その後の冷え込みで凍ってカチカチ・つるつるになった状態、滑りやすくてどうしょうもない状態を言います。「何それっ」と馬鹿にされるまで、まさか方言だとは夢にも思っていませんでしたから、かなり恥ずかしかったことが思い出されます。でも、「きんかなまなま」としか言いようのない状態だと思うのですがね。娘に聞くと、今じゃ金沢でも若い人は、「何それ」という反応らしいです。
 兼六園も金沢城公園も御日様が出て、風もなく、絶好の雪見日和でした。

善光寺びんずる市

2017年11月30日 | 日記

 1年以上ぶりのブログ更新です。
その間ちょっと患っておりまして、体調は回復していたのですが、精神の方が落ち込んでおりまして長いお休みになりました。
 心身ともに健康ということば、何気なく至極当然のごとく使っておりましたが、本当に大切な意味のある言葉だったのだとつくづく思います。団塊の世代の一員としましては、あんまり年齢を実感したことはなかったのですが、こんなことを考えてしまうようになって、本当に歳をとってしまったのだなと思います。

 久方ぶりに鉄道に乗りました。北陸新幹線で長野に、2泊3日。
 鉄道はおろか、金沢を出るのも久しぶり。
 事前の緊張はかなり感じましたが、帰ってきたら別段、普段の旅と変わりませんでしたが、すこし、それこそ心身ともに自信になりました。この歳になって緊張もないですけどね
 前回のブログ記事も奇しくも長野は善光寺さんの事でしたが、今回もその善行寺さんへの旅に関してで、実は、境内で毎月開催されているびんずる市の10月開催の際に、妻の妹が出店するというので、その応援と見物ということで行ってきました。お天気がもう一つだったのですが、人出はすごかったですよ、さすがに善光寺さんですね。
 長野の方には長女が嫁いでおりますので、うちの一家と、妻の姉と出店する妹とが集い、楽しい2泊3日でした。嫁ぎ先のお父さんお母さん、お婿さん、この場をお借りしまして、お礼申し上げます。本当に楽しい時間をすごさせていただきました。

 義妹は、何年か前から水引細工に興味を持ちまして、今回はその水引細工を施したポチ袋を出店販売しました。万博公園で開催された市に出店した際は、「太陽の塔」を模したポチ袋が大人気で、今回もそれが一押しだという思惑だったようですが、案に相違して長野では、これ何?という反応だったらしいです。やっぱり長野では、距離的にも、時間的にも大阪万博の「太陽の塔」では食いついていただけなかったということですが、でもまあ、別の、ロケットを模した方が結構売れて、片道分の旅費くらいは出たし、長野の地元の人の反応も聞けて、それはそれで意義があったらしいです。

 長野の人には反応がもう一つだったらしいのですが、大阪万博、懐かしくはないですか。京都から大阪に向かうJR当時は国鉄、だったか阪急電車だったか、その車窓から見える千里が丘丘陵に、「あのへんで今、万博の工事やってんねんでー、知ってるかー」なんて、友達となれない関西弁(まだ京都で大学生生活を始めたばかりで、金沢弁丸出しの)で話したのが万博との初めのかかわりでした。
 言い忘れましたが、私たちの世代にとって万博とは、つくばの科学万博や名古屋博、花と緑の博覧会なんてものではなく、あくまで‘70大阪万博。つくばや名古屋在住の人にとってもそのはずです。開催中はちょうど20歳。3回ほど行きましたが、人気のソ連館、アメリカ館、日本館なんてものすごい列で、とうとう入れませんでした。入れたのは確かオーストラリア館、カナダ館、アフリカやアジアのいくつかの国(差別じゃないですよ、50年も経ちましたから思い出せない)だけ、それでも十分楽しめましたし、なんか未来も感じました。ものすごい人出と、その熱気、シンボルとしての「太陽の塔」、今も強烈なイメージがあります。人気の施設には入れませんでしたが、結構いい思い出になっています。あの頃の日本、元気がありましたね。頑張れば、もっと暮らしがよくなる、明日は明るいんだって素直に信じることが出来ました。
 一番人気はアメリカ館じゃなくて、ソ連館だったらしいですね。そのソ連が崩壊するなんて当時夢にも思いませんでしたし、その結果共産主義がなくなって、資本主義に敵がなくなり、今の新自由主義につながり、お金を持っている人たちにはどんな制約もなく思うがままにという意味での自由、に儲けていいですよという世の中になるなんて、あんまりな結果だとしか私には思えない。資本主義を脅かす存在がなくなって、働く人たちに配慮する必要を感じなくなり、そこへのお金のめぐりが滞り、結婚もできず、子供も産めずで、次代を担う労働者の数さえ確保できないという日本の人口減少。これでいいんですかね。私の大好きな日本の文化・伝統といったものの担い手がいなくなるなんて考えたくもないです。
 元締めのアメリカが変わらない限り日本は何もできないのかもしれませんが、そのアメリカでは大多数のお金を持たない人たちがトランプを支持したらしいですが、早晩行き詰まるというか失望しか産まないのは目に見えていますし、そうなって初めてアメリカが変わらずを得なくなり、そうすると、日本もようやく変われるのじゃないかななんて、このところ考えています。日本の人口が行きつくところまで減少しないうちに変われるか心配もしています。
 株が上がれば、そのうち働く人達のところにもお金が巡ってくる、なんてことを言っている経済学者をテレビで見るたびに、「何年前からそんな手あかのついた嘘を言うとるがや、もういい加減にしまっしや」と、金沢弁丸出しで悪態をテレビに投げつけている最近です。

 やっとブログを更新できましたので、これからはもう少し回を重ねたいと思うとるがや。