甲府市観光課スタッフBLOG

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観光課スタッフが武田氏館跡の歴史に迫るPart③~神社の中に残る武田氏の生活の跡~

2020-07-17 09:50:00 | イベント情報

前回お伝えした館跡の正門・大手編では、跡の正門・大手門、堀など城にかかわる建築的な部分を紹介しました

今回は、神社の中に今でも残されている武田氏の生活の跡を紹介していきます。

下の写真でいうと赤枠の部分!それでは、スタート

 

 

 

(写真①)

(写真①の左下拡大図)

 

まず、武田神社宝物殿前にある説明板(写真①の左下拡大図)をご覧ください。

これには武田信玄公の時代の館内にあった施設が描かれており、当時の建物配置などが分かります。

 

この館は、

区画①:人々が生活していた場所

区画②:公務や来客対応などを行っていた場所

区画③:庭や池などの景観

 

の3つに区分され、それぞれ階段状につくられていました

(区画①は現在の地上と同じ高さですが、区画②は区画①から1メートル下、区画③は区画②から1.5メートル下にあり、3つの区画は階段状になっていました。)

 

一般的な館は平らに区画されていますが、なぜ館跡の区画は階段状になっているのでしょうか?

 

その秘密は・・・

 

 

甲府市の地形にあります

 

甲府市は扇状地になっているため、斜面を段々に切って区画が整備されました。

それゆえ、高低差のある区画になっているのです。

(意図的に階段状にしたのではなく、扇状地という地形から、区画を平らに整備することができなかったのですね

 

それでは、区画ごとに生活の様子を見ていきましょう。

 

まずは区画①についてです

こちらの区画は、3つの区画の中で、唯一500年前のくらしの跡が確認できる場所になります

(区画②・③は、現在は地中に埋まってしまっていて確認できないので、区画①はとても貴重な場所ですね

上の写真の右奥にご注目ください。

なんと、当時使用していた井戸がそのまま残っています(説明板の区画①「台所」の右あたりで、現在の武田神社拝殿の東側になります。)

(当時の暮らしを身近に感じることができて、感慨深いですね)

 

また、説明板の区画①「御うら方」には、

あの武田信玄公の正室である三条夫人が住んでいました

 

次は区画②に進みます。

こちらには、当時、主殿・本主殿がありました!

京都からの公家を招いたり、裁判の裁定をしたりと、来客対応や公務を行う場所として、

使用されていたそうです。

(1.5メートル下にある区画③の庭を見渡すことができるため、来客対応にはうってつけの場所ですね)

 

現在の社務所前にある看板通りに進んでいくと・・・

右手にまたまた井戸があります(説明板の区画②「本主殿」の左下あたり)

名称は、『姫の井戸』と言います

本来、姫の井戸は、社務所の西側にありますが、こちらまで水を引っ張ってきているようです。

一説によると、信玄公の御息女誕生の際に産湯に使用したことが名前の由来になっているそう!

また、この井戸からは、茶釜や化粧道具が出てきたことから、主に女性が使用していたのではないかと言われています。

 

なんと、こちらの井戸水は飲むことができます

 

・・・が・・・

 

現在、新型コロナウイルス感染拡大防止の為、井戸水の使用ができなくなっています

一刻も早い新型コロナウイルスの収束を願うばかりです。

 

最後に区画③です!

こちらは、現在と同様に庭となっていました

当時生活していた人々や客人は、この広いお庭を見て癒されていたのでしょう。

(現在でも、このような優雅で上品な庭を見るとなんだか心が落ち着きますよね)

 

上の写真正面の大きな榎の奥に目を向けると、

何やら土が盛り上がっている場所が見えます

この部分は、まだ館が小さかった信虎公の時代に、土塁があり、その上に櫓(やぐら)があったのではないかと推測されています

 

また、当時の区画③には存在していませんでしたが、現在は、写真右側に見える茶色い建物で能を上演する「甲陽武能殿」や、赤い神橋を渡ってすぐの鳥居の左側にあり、金運や延命長寿のご利益が得られるといわれている「奇木 三葉の松」などもあるので、ぜひそちらもチェックしてみてください

 

信玄公の時代の館の役割は、「居住の場」、「公務の場」といったもので、「戦いをする場」ではありませんでした。しかし、勝頼公の時代になると、「居住の場」と「戦いをする場」とが一体となり、やがて、豊臣秀吉が天下統一をした頃には、国主の拠点が甲府城に移っていったということです。一番はじめの写真①の左上の図は武田氏滅亡後、館が城に変わったようすをあらわしています。

 

武田氏の生活していた痕跡から、武田氏の歴史の変遷がわかりますね

 

以上が神社の中に今でも残されている武田氏の生活の跡の紹介になります

さて、次回は「館の西門から西曲輪」を紹介します

そこには当時の地形がそのまま残っている場所が多いとのこと

お楽しみに

 

 

 

 

 

 


観光課スタッフが武田氏館跡の歴史に迫るPart②~館跡の正門・大手門編~

2020-07-01 14:33:00 | イベント情報

 

前回お伝えしました、武田氏館跡の概要編に続き、今回は下記の写真の赤枠辺り、館跡の正門・大手門編をお送りします

それではスタート

 

前回、館跡の正門はどこか?とお話しましたが、今回は実際に現地をご紹介します

が、その前に館跡の正門の外側に広がる大手をご説明します

 

大手とは、当時の正面玄関になる位置です。

大手に入るための一番東側に鍛冶小路と言われる道路があり、その場所がこちらです。

 

 

鍛冶小路沿いには、金属を溶かして刀や武具、甲冑、兜などを作る職人さんが住んでおり、作ったものを館に納めていたそう。

 

(ちなみに、鉄で武具や道具を作っていたのが鍛冶師、貴金属で金具の装飾を扱う職人が細工師です)

 

現在、大手門東史跡公園となっている東の堀は、一部が蓮池になっています

 

7月には池いっぱいに蓮の花が咲くそうですが、今の時期は開花前でした…残念

蓮池からさらに進むと、4段の階段があります。

 

この階段は、地形の高低差によって作られました

階段の踏み石の高さや、間隔が違うのは、敵が歩き難くするためという軍事的な工夫によるものだそうです

(階段と言えば、昇り降りしやすく、安全に使用できるよう造られますが、当時のこの階段は、敵が転びやすくするためのものだったんですね)

 

階段を降りると、土塁の復元があります。

こちらも階段と同じく、敵の侵入を防ぐ土手で、館を守る構造物の1つでした。

 

今は公園のように整備されていますが、1ヵ所だけ何やら違う場所が見えてきました👀

 

この場所、何か分かりますか

字は、と書きます

正解は・・・ 「うまや

当時は馬が用意され、ここで待機していたそうです

(丸い模様のようなものは当時の柱の跡!)

 

いよいよ正門へ

こちらが館跡の正門・大手門のあった場所になります

 

この場所、見覚えがある方も多いと思います

実はこの場所、毎年12月に開催される「武田の杜トレイルランニングレース」のスタート地点でもあります

多くのランナーの方々が館跡の北側に広がる武田の杜を駆け巡る、武田の杜トレイルランニングレース

(開催の際には、沿道からの熱いご声援をお待ちしております

 

 

以上が正門・大手門のご紹介となります。

次回、武田神社へお越しになる時は、こちらの館跡の東側から入ってみてはいかがでしょうか。

 

そしてこの場所は、武田信玄公が戦に出発する際、必ず通っていた正門・大手門の東側にある道です。

 

馬にまたがり、富士山を横目に見ながら戦へと向かう武田信玄公は、当時何を思っていたのでしょうか・・・

まさかあの時が最後の戦になるとは…。


 

ちょこっと石垣のお話

正門の両脇には立派な石垣があり、戦国時代の石垣が残され、今でも見ることができます👀

(この写真ではお伝えできませんでしたが、正門に架かる橋の北側は石垣が階段状(段々)に積まれており、南側は一直線に積まれています。建設当初は北側と同じように階段状に積まれていましたが、豊臣秀吉の時代に正門前の橋を広げるため、一直線に積み直しをされたと推測されています。そのため、一直線に積まれている方が新しい技術だそう技術の進化を知ることができますね

 

一直線に積まれている石垣って…?

と思った方へ。甲府駅東側・舞鶴城公園の石垣をご覧ください

(綺麗に一直線に積まれていますが、これが技術の進化ですね


 

今回は、館跡の正門・大手をご紹介しました。

次回は、「神社の中に今でも残されている武田氏の生活のあと」をご紹介します。

なんと戦国時代に実際に使用されていた井戸が登場予定

お楽しみに