エリオット・デインジャーフィールド(1859-1932)、アメリカ。
牛を鞭打っている人間が、まるで傷のようだ。
鞭を打たねばこんな商売はできまい。だが、そういうものである自分を痛く苦しんでいる自分もいる。
それでもやらねばならないとき、人は時に、自分がまるごと、何かの傷のようなきついものになるのである。
ころさねば食えぬ生業せおひつつけふも鞭打つおのれの影を 揺之
今日は啄木をとりあげた
やはらかに積れる雪に
熱てる頬を埋むるごとき
恋してみたし
石川啄木
恋は若き人間存在の宿命だ。
そこを避けて生きていくことのできる人間はいない。
故に男は時に偶像のように女を求める
理想の恋をしてみたい。
だがその願いが叶うことはほとんどない。
美しい恋の夢は見果てぬ夢なのか。
恋は何のためにあるのだろう。
降る雪の中にたたずむ一群の炎のごとき恋を知りけり 揺之
月夜にはそれとも見えず梅の花香を尋ねてぞ知るべかりける 凡河内躬恒
躬恒はきつい歌人である。すぐれているが容易に正体を現さない。
高い形をつくりつつおそろしく不思議な紗をかけて自分を隠している。
香をさぐっておいかけてもみつからぬ花のようである。
わづかにもそよぐ春風空耳にのがしたりける白梅の声 揺之
苦しみて生きつつをれば枇杷の花終りて冬の後半となる 佐藤佐太郎
それなりに思えるが、作者の心が見えない。
かたちはあるが、遺体のない棺のようである。
これはなぜか。
おそらく本霊が活動していないのであろう。
この歌人はほぼ傀儡であったかと思われる。
霜月の風のかをりに振り向きてわれになにとふ真昼間の枇杷 揺之
くさむらへ草の影射す日のひかりとほからず死はすべてとならむ 小野茂樹
交通事故死した作者の自分の死を予感した歌だとされるが、それはあながちはずれてはいまい。
人間は嘘で作った自分を生きている時、常に背徳の不安をまとっているものだ。
自分は死すべきものだという不安の影をどこかに感じながら生きているのである。
自分の作ではあるまい。
盗作の匂いもしないところから見ると、霊界人の作である。
汝が罪をとへる光のさしこみて窓に消えゆくひとがたの雲 揺之
今日は啄木に興味を持った。
こころよく
我にはたらく仕事あれ
それを仕遂げて死なむと思ふ
石川啄木
短歌を三行に分けて書くことは、わたしには難しいが、彼にはできる。
しかもそれが効果的だ。詩文として完成度が深まる。
啄木には夢があった。命と才能をかけてやりたいことがたくさんあった。
それがあらゆる妨害のおかげでできなかった。
残してくれた詩文は多いが、無念であったろう。
その無念のひとかけらでも、わたしが果たしてやりたいという思いに駆られる。
啄木の世の木を打ちしその音の高きが故に人は忘れず 揺之
鳴く鹿の声に目ざめてしのぶかな見はてぬ夢の秋の思を 慈円
慈円は澄んだ憂愁を歌う。
鹿の声は人間の心に何かを投げかけるものだ。
彼らはただ純粋にだれかを恋うている。
さみしいからそばにいてほしいと。
それを聞く時、人間は遠く隔たっている何かへのはげしい郷愁にとらわれ、そこから痛い情動を発し、鹿のように歌を詠うのだ。
鹿のごと鳴かざる人の声ひくくわがみの玉の痛みをぞ打つ 揺之