イケメンひいき、自慢話ばかり…ダメ大学教師の実例ビデオ
というニュース。
学生が不満を漏らすダメ教員をなくそうと、山形大など4大学の教職員や学生がビデオ「あっとおどろく 大学教師NG集!」を制作した。来月7日の大学教育学会で発表する。
ということで、大学教育学会。
第31回大会は6月6日(土)・7日(日)@首都大学東京 南大沢キャンパス
分科会が多くてメニュー盛りだくさん。
興味深い物も多い。
この「NG集」は7日の朝、「自由研究Ⅶ 授業改善」というのの中で発表されるらしい。
静大の佐藤龍子先生が参加されている(佐藤先生はもう一つ別の発表も)。
上にリンクした新聞記事には、“代表的な「ダメ教員」の例”として、
イケメン学生をひいきする
殴り書きで板書が読めない
どうせわからないだろうと見下す
学生を無視し、猛スピードでしゃべり続ける
飲食や私語、化粧を注意しない
遅刻し、時間が来ても終わらない
家族の自慢話ばかりする
授業の準備をしない
欠席学生を罵倒する
が挙げられている。
私はどうだろうね。
- 美人(イケメン)学生贔屓
どんな形にしても、贔屓はしません。
ただ、主体的に求めてくる学生には手厚くなります。
それより、この項目は、報道用資料にあるのか、読売の記者が勝手に判断したのか、ちょっと問題でしょうね。
記事中で
論文の締め切りに間に合わなかった学生を厳しくしかる一方で、イケメン学生には「あなたの論文を待っていたの」と猫なで声を出すエコヒイキ教員、
とある部分。
たまたま女性教員の例を寸劇にしただけのはずが、こういう列挙の仕方では「美人差別」の男性教員は問題なし、みたいに見えてしまう。
表現は恐い。
× 殴り書き板書
あはは。すみません。
授業によっては全く板書しないし、文学史とかはかなり書く(その割に読めないという苦情も……)。
でも、綺麗な板書を携帯で撮影しただけで試験通るような授業が良いとは思わないし、読めない固有名詞を自分で調べるくらいの気力が欲しいなぁ。
- どうせわからないだろうで上から目線
「理解できないのは教師が悪い」というのが前提でやっていますが、「知らないのは予習してこないのが悪い」とも思っています。
なんの話をするか、ちゃんと言ってあるのに。
「宿題」や「担当」以外の自発的な予習復習が如何に大事か理解して欲しいので、時々宿題を課してみるわけです。
△ 学生置き去り猛スピード
少しありますかねぇ。
スピードと言うより話が飛んでついていけない、という苦情は時々あります。
なるべく配付資料に沿って、と思うんですが、私の頭の中では「そういえば」で繋がってるんだよなぁ……。
△ 飲食・私語・化粧注意しない
飲み物は状況によっては許可してます。これからの季節、特に人文棟まで登ってきて水分補給禁止は酷でしょう。
食事・化粧はとりあえず居ませんよね?
静岡でもあるのかなぁ。
私語のことは、この辺参照。
- 遅刻して延長
これも私はあり得ないでしょう。
遅刻して早く終わる人も問題にして欲しい。
そういえば、最近学生が、遅刻常習の先生がいて困る、と言ってた。
受講生みんなで「ちゃんと90分授業をやってください」って言ってみたら、とアドバイスしたんだけど、難しいのかな。
- 家族自慢
同居家族居ないし。
仕事関係の手柄話みたいなことは少し言うかも。
配偶者自慢をする教師は何人か知っています。
ペット自慢する教師に閉口、って学生が言ってたけど、そんな人がいるのか???
△ 準備不足
授業準備は切りがないので。
時々、抜けてた! と思うことはあります……。
- 欠席学生を罵倒
これ、状況が解らない。
休んだ人のことを言っても仕方ないしねぇ。
欠席の話じゃなく、受講態度とか、予習関係とか、「罵倒」はしないけど、皮肉は言うねぇ。
と、こうやって「採点」すると、まぁまぁじゃん、ということになるのだけれど、私の教員としての評価は良くない。
なぜか、というと、「ダメ教師」の要素が少ない、ということが、そのまま「良い教師」であるわけがない、ということなんだよね。
私は私のためにしか奉仕しない。
私の辞書に「努力」という言葉はない。
つまり、私が愉しいと思うことを楽しむだけ。
だから、たまたま波長が合う人には喜ばれるけど、根本的なところで、教師ではないんだと思う。
もう20年早かったら、それでも幸せにやってられたんだろうけどね。
翻って、じゃぁ、どういう教師が「良い教師」なんだろう、と考えると、答えがない。
自分が学生時代に出会った良い教師、というのだけでも、ホントに統一的なイメージはないし、人格と学問と授業の質と、一人の先生でも、評価は全く違う。
全部に於いて尊敬できる人も居たけどね。
まぁ基本的に研究者に人格と事務能力を求められても困るよ。
学生の言うところでは、「聞き逃したら損」と思えるのが良い教師(授業)だそうだ。
なるほど。
それは私も目指している。
「茶の世界」とかはそれで成功してると思う(でも、私はコーディネイターで、喋るのはゲストなんだけど)。
逆に、私の授業にいない学生が同じ日の情報意匠論には居る、ということはよくあったね。
つまり、そういうことだ。
それにしても、こういう学会に参加する人たちって、実際に「良い教員」なのかなぁ。
ていうか、それなら研究会必要ないしね。
じゃぁ「ダメ教員」は、参加するんだろうか。
同志社のシンポジウムも面白かったし、行ったら面白いかも、と思わないでもないけど、いろいろ無力感もある。
「心ある」教員は、一人だって授業をよくしようと努力する。
でも、そうでない教員は、変わらない。
私も含めて、努力しない教員達が、それによって何か不利益になる、と言うことは、例えば静岡大学では、全くあり得ない。
業績リストを作っても、授業アンケートをやっても、その結果が「査定」されることはない。
それなら無能の人で居た方が楽だ。
目立たない人は責任のある仕事を押しつけられないで済むし。
毎年同じ話、同じテストをする先生を歓迎する学生もいるだろう。
私は、能力はないのに口が先に出るので、不本意に目立ってひどい目に遭っている。
じゃぁ、黙ってろ、という話なんだけど、それはそれでストレスだからねぇ。
自分のやりたいことをするための最低限の環境は確保したいし。
地域連携だって、たまたまいろんな事情でやむを得ず巻き込まれてしまっただけで、連携だの貢献だの、そのものには全く興味はない。
それが大学の利益になるというので、引きずり出されてしまった。
迷惑な話だ。
責任転嫁だ、という批判を予想しながら言うんだけど、
大きな問題は、学生達が、学びたい、と本気で思ってるのか、ということなんだよねぇ。
授業をよくする為に一番必要なのは、“受益者”の挑発なんじゃないのか、と思うのだ。
学生は不満があっても直接言わない。
殆どの大学で自治会が存在しないし。
学生達が、「そんな授業やらないでください!」「こうしてください!」という声を上げることが、どんなアンケートより、どんな授業研究活動より、実質的な効果があると思う。
それと、授業の公開。
私は良い授業をやっていると自信を持って言えるわけではないけれど、参観されて困るような授業はしていない。
10年前から公開態勢です(さすがにここの情報は古すぎるけど……)。
というニュース。
学生が不満を漏らすダメ教員をなくそうと、山形大など4大学の教職員や学生がビデオ「あっとおどろく 大学教師NG集!」を制作した。来月7日の大学教育学会で発表する。
ということで、大学教育学会。
第31回大会は6月6日(土)・7日(日)@首都大学東京 南大沢キャンパス
分科会が多くてメニュー盛りだくさん。
興味深い物も多い。
この「NG集」は7日の朝、「自由研究Ⅶ 授業改善」というのの中で発表されるらしい。
静大の佐藤龍子先生が参加されている(佐藤先生はもう一つ別の発表も)。
上にリンクした新聞記事には、“代表的な「ダメ教員」の例”として、
イケメン学生をひいきする
殴り書きで板書が読めない
どうせわからないだろうと見下す
学生を無視し、猛スピードでしゃべり続ける
飲食や私語、化粧を注意しない
遅刻し、時間が来ても終わらない
家族の自慢話ばかりする
授業の準備をしない
欠席学生を罵倒する
が挙げられている。
私はどうだろうね。
- 美人(イケメン)学生贔屓
どんな形にしても、贔屓はしません。
ただ、主体的に求めてくる学生には手厚くなります。
それより、この項目は、報道用資料にあるのか、読売の記者が勝手に判断したのか、ちょっと問題でしょうね。
記事中で
論文の締め切りに間に合わなかった学生を厳しくしかる一方で、イケメン学生には「あなたの論文を待っていたの」と猫なで声を出すエコヒイキ教員、
とある部分。
たまたま女性教員の例を寸劇にしただけのはずが、こういう列挙の仕方では「美人差別」の男性教員は問題なし、みたいに見えてしまう。
表現は恐い。
× 殴り書き板書
あはは。すみません。
授業によっては全く板書しないし、文学史とかはかなり書く(その割に読めないという苦情も……)。
でも、綺麗な板書を携帯で撮影しただけで試験通るような授業が良いとは思わないし、読めない固有名詞を自分で調べるくらいの気力が欲しいなぁ。
- どうせわからないだろうで上から目線
「理解できないのは教師が悪い」というのが前提でやっていますが、「知らないのは予習してこないのが悪い」とも思っています。
なんの話をするか、ちゃんと言ってあるのに。
「宿題」や「担当」以外の自発的な予習復習が如何に大事か理解して欲しいので、時々宿題を課してみるわけです。
△ 学生置き去り猛スピード
少しありますかねぇ。
スピードと言うより話が飛んでついていけない、という苦情は時々あります。
なるべく配付資料に沿って、と思うんですが、私の頭の中では「そういえば」で繋がってるんだよなぁ……。
△ 飲食・私語・化粧注意しない
飲み物は状況によっては許可してます。これからの季節、特に人文棟まで登ってきて水分補給禁止は酷でしょう。
食事・化粧はとりあえず居ませんよね?
静岡でもあるのかなぁ。
私語のことは、この辺参照。
- 遅刻して延長
これも私はあり得ないでしょう。
遅刻して早く終わる人も問題にして欲しい。
そういえば、最近学生が、遅刻常習の先生がいて困る、と言ってた。
受講生みんなで「ちゃんと90分授業をやってください」って言ってみたら、とアドバイスしたんだけど、難しいのかな。
- 家族自慢
同居家族居ないし。
仕事関係の手柄話みたいなことは少し言うかも。
配偶者自慢をする教師は何人か知っています。
ペット自慢する教師に閉口、って学生が言ってたけど、そんな人がいるのか???
△ 準備不足
授業準備は切りがないので。
時々、抜けてた! と思うことはあります……。
- 欠席学生を罵倒
これ、状況が解らない。
休んだ人のことを言っても仕方ないしねぇ。
欠席の話じゃなく、受講態度とか、予習関係とか、「罵倒」はしないけど、皮肉は言うねぇ。
と、こうやって「採点」すると、まぁまぁじゃん、ということになるのだけれど、私の教員としての評価は良くない。
なぜか、というと、「ダメ教師」の要素が少ない、ということが、そのまま「良い教師」であるわけがない、ということなんだよね。
私は私のためにしか奉仕しない。
私の辞書に「努力」という言葉はない。
つまり、私が愉しいと思うことを楽しむだけ。
だから、たまたま波長が合う人には喜ばれるけど、根本的なところで、教師ではないんだと思う。
もう20年早かったら、それでも幸せにやってられたんだろうけどね。
翻って、じゃぁ、どういう教師が「良い教師」なんだろう、と考えると、答えがない。
自分が学生時代に出会った良い教師、というのだけでも、ホントに統一的なイメージはないし、人格と学問と授業の質と、一人の先生でも、評価は全く違う。
全部に於いて尊敬できる人も居たけどね。
まぁ基本的に研究者に人格と事務能力を求められても困るよ。
学生の言うところでは、「聞き逃したら損」と思えるのが良い教師(授業)だそうだ。
なるほど。
それは私も目指している。
「茶の世界」とかはそれで成功してると思う(でも、私はコーディネイターで、喋るのはゲストなんだけど)。
逆に、私の授業にいない学生が同じ日の情報意匠論には居る、ということはよくあったね。
つまり、そういうことだ。
それにしても、こういう学会に参加する人たちって、実際に「良い教員」なのかなぁ。
ていうか、それなら研究会必要ないしね。
じゃぁ「ダメ教員」は、参加するんだろうか。
同志社のシンポジウムも面白かったし、行ったら面白いかも、と思わないでもないけど、いろいろ無力感もある。
「心ある」教員は、一人だって授業をよくしようと努力する。
でも、そうでない教員は、変わらない。
私も含めて、努力しない教員達が、それによって何か不利益になる、と言うことは、例えば静岡大学では、全くあり得ない。
業績リストを作っても、授業アンケートをやっても、その結果が「査定」されることはない。
それなら無能の人で居た方が楽だ。
目立たない人は責任のある仕事を押しつけられないで済むし。
毎年同じ話、同じテストをする先生を歓迎する学生もいるだろう。
私は、能力はないのに口が先に出るので、不本意に目立ってひどい目に遭っている。
じゃぁ、黙ってろ、という話なんだけど、それはそれでストレスだからねぇ。
自分のやりたいことをするための最低限の環境は確保したいし。
地域連携だって、たまたまいろんな事情でやむを得ず巻き込まれてしまっただけで、連携だの貢献だの、そのものには全く興味はない。
それが大学の利益になるというので、引きずり出されてしまった。
迷惑な話だ。
責任転嫁だ、という批判を予想しながら言うんだけど、
大きな問題は、学生達が、学びたい、と本気で思ってるのか、ということなんだよねぇ。
授業をよくする為に一番必要なのは、“受益者”の挑発なんじゃないのか、と思うのだ。
学生は不満があっても直接言わない。
殆どの大学で自治会が存在しないし。
学生達が、「そんな授業やらないでください!」「こうしてください!」という声を上げることが、どんなアンケートより、どんな授業研究活動より、実質的な効果があると思う。
それと、授業の公開。
私は良い授業をやっていると自信を持って言えるわけではないけれど、参観されて困るような授業はしていない。
10年前から公開態勢です(さすがにここの情報は古すぎるけど……)。
自ら積極的に学びたいと思えるほど相性のいい分野にめぐり合えたり、学ぶことそのものを目的化するくらい楽しめたりする、というのは、それ自体が一つの才能や素質……幸福なことなのではないかな、と思います。
……と、どこかに書いたことの焼き直しですけど。
だから、一旦社会に出て、必要があると思った人だけ大学に入るような仕組みがあった方が良いんじゃないかとさえ思うんだけれど。
まぁいまは学部は教養、学問は大学院から、という感じだし、難しい。
ホントに、「これ!」と言うのに出会える人は少ないね。
学問や勉強って、趣味や娯楽と同じくらい「豊かさ」と繋がってはずですよね。
日本は勉強っていうと「苦行」のようなイメージが一般的かもしれませんね。なにが原因なのか‥。
何年か前、某S大に進学した友人に再開した時「何の勉強してるの?」と聞いたら
「はぁ?大学なんて遊ぶために行ってるんだよ」と言われた時は、なんとも言えない気分になりました。
どこかで「苦行」になっちゃったんだよねぇ。
近代の初めは生きるために必要だったのかも知れない。
いまは、生きていけると思いこんでる。
でも、もっと積極的に、悦びなんだと言うことを小さい時に知らないとねぇ。
「苦行」の教育が良くないということで導入(?)されたのが
「ゆとり教育」ですよね。
でもその「ゆとり教育」も失敗ということになった。
さぁどうするかってことで、今また「苦行」の教育に戻そうということになってるのかと思いますが、
「ゆとりのある教育」ってのは理想像であって
「ゆとり教育」とは別物だと僕は思うのです。
とにかく、日本の教育が「苦行」と「ゆとり」を行ったり来たりするようなことにならなければいいのですが。。
「学問というのは嫌々やる物だ」という前提があるから、「つめこみ」か「ゆとり」か、というパラダイムから抜け出せない。
例えばタクヤ君が芸術について学ぶ為にしていることは、私から見たら信じられない苦行だけれど、きっと愉しいんだよね。
好きなことならどんなに大変でも苦にはならない。
学ぶって愉しい! もっと学びたい! ということを、子供の頃にちゃんと理解できれば、そこから離脱できるのだよねぇ。
大学生では遅い気がするんだよなぁ。
諦めたくないけど。
僕も「ゆとりのある教育」というのはスローガンでしか無いと思います。
これも国民性なのかどうかわかりませんが、「○○をしましょう」という言葉を作ったら、もうそれがワクになって、そこで思考停止してしまうんですよね。明文化して、それが一番重要な仕事だという風潮というか‥その典型がお役所仕事とかなわけで。
逆に言えば、言葉が無ければ誰も動かない(動けない)ってことなのかなとも思います。
(この現状の解決が先でしょうか?)
僕自身は「ゆとりのある教育」という言葉(理想像)に悪い印象を持ってないのですが、これを文章なんかにした時点で、もうとてつもなくツマラナイですね。他人には薄っぺらく聞こえるでしょうし。
思い返してみると、僕の小中学校時代を振り返るに「学問の喜び」を体現していた先生は、一人だけです。その先生の授業は楽しかったし、苦手な教科が好きになりました。(得意にはなりませんでしたが笑)
ちなみに僕が「勉強」の喜びを知ったと自覚したのは、つい最近です。恥ずかしい!