いろいろたまってしまった。
宣伝不足のまま時間切れのSPAC+静大人文企画、「世界の演劇文化の楽しみ方」。
とにもかくにも終了。
事前申し込みは12名。当日の人もちらほらいたようで、30には届かなかったかなぁとはいうものの、少人数だからこそ、というサロン的な雰囲気は、それはそれで良かったんじゃないでしょうか。
次に繋がる期待感はありました。
そして、やっぱり、これを逃した人は残念でしたねぇ、だし、もっとたくさんの人に伝えたかったなぁと思うのであったよ。
学生も、もう少し来ると思ったんだけど……。
さて、プログラム。
0 上利博規 「世界の演劇文化の楽しみ方」のはじめに
1 鈴木実佳 The Taming of the Shrew
2 花方寿行 『スカパンの悪だくみ』とスペイン文学・演劇
3 岡崎真紀子 唐十郎「ふたりの女」へのアプローチ ―日本文学研究の立場から
4 上利博規 インドの演劇文化とクーリヤッタム
5 ディスカッション
6 修了証書授与式
0
前説。年表や考え方のヒントのような物を提示。
面白そうだったけど後半に繋がっていかなかったのは残念。
1
シェクスピアの肖像に関する新しいニュースが枕。
一番の衝撃は……、
と書く前に、試しにエキサイトの翻訳サイトで「The Taming of the Shrew」を訳すと……
なんと、
じゃじゃ馬馴らしでした!
いや、当たり前、ですか?
The taming だけだと「飼いならすこと」OK。
the Shrew は、「がみがみ女」です。
shrew だけにすると……、あ、やっぱり「がみがみ女」だ。
で、さて、ウィキペディアで「shrew」。トガリネズミと言うらしいです。
馬はどこへ行ったんだ??
トガリネズミは飼い慣らせるのか??
シェクスピア劇の邦題って、坪内逍遙がつけたのかなぁ。
フェミニズム解釈・反フェミニズム解釈……。
そしてフレームの話。
やっぱりシェクスピアはただ者ではない。
でも、400年前の「限界」が必ずある。
いま、どう挑むのか、というのはやっぱり面白い問題なんだろうなぁ。
2
フランスの劇作家モリエールの作品の話なんだけれど、「文学」先進地だった16世紀後半から17世紀に至るスペインの小説や芝居が、どう踏まえられているのか、と言う見取図を、そこに「ピカレスク」というスペイン語起源のキーワードを置きながら具体的な作品に即して紹介。
ヨーロッパって、繋がってるなぁ、と言う実感。
カーニバル的な価値観の転覆の話とは別に、ピカロの居場所の変容みたいな物が見えて面白い。
3
「ふたりの女」は、『源氏物語』の六条御息所生き霊の話を踏まえている。
同じ部分は、能にもあるし、三島の『近代能楽集』でも取り上げられた。
短い時間ながら、それぞれの作品を比較しながら、“古典”という問題を再照射してみせる。
新しい作品生成のための想像力の型としての古典という視点は、まさに岡崎学。
4
インダス文明以来の演劇文化の流れを説明したあと、寺院内で信仰と結びつきながら行われてきた演劇・舞踊が、イギリスによる植民地支配の中で“発見”され、今は、世界中が知ることになったという、その流れの中で、信仰の場、滅びつつある伝統文化と、劇場空間に押し出されることで生き残る“文化遺産”という問題。
これはこれで、日本の地方芸能でも常に問題になることだ。
ディスカッションの中でも、“神無き時代”の祝祭空間というような話もあり……。
時間足りないなぁ、という感じ。
かといって、数日掛けて、と言うと、相互交流が出来なくなるし、このくらいで終わって、あとはそれぞれに持ち帰って話し合うくらいで良いんじゃないかと思う。
古典回帰といい、温故知新と言う。
実際の所、もう神はいないし、踏まえているはずの共通の古典も物語も既に無い。
だから、古典は、なぜだか判らないけれど学ばねばならない課題のような扱いを受けてしまう。
少し話が違うのだけれど、先日、現代の地方小出版をどうするか、という話の中で、駿河版銅活字や本木昌造のことを調べて意味があるのか、という疑問が出た。
たしかに、技術史の知識が増えても、そこから、未来へのヒントは得られないかも知れない。
しかし、家康や羅山がどんな時代背景で、何をしようとしたのか、本木昌造、或いは、本木家とは、なんだったのか、という視点は、現在のメディア状況のなかで、印刷や出版がどうあるべきか、ということを考える時の補助線の一つにはなるんじゃないのかな、と思っている。
江戸時代の書籍商史の話は、もっと参考になるだろう。
で、やっぱり、
「古人の跡を求めず、古人の求めしところを求めよ」
というところに行き着くのだね。
宣伝不足のまま時間切れのSPAC+静大人文企画、「世界の演劇文化の楽しみ方」。
とにもかくにも終了。
事前申し込みは12名。当日の人もちらほらいたようで、30には届かなかったかなぁとはいうものの、少人数だからこそ、というサロン的な雰囲気は、それはそれで良かったんじゃないでしょうか。
次に繋がる期待感はありました。
そして、やっぱり、これを逃した人は残念でしたねぇ、だし、もっとたくさんの人に伝えたかったなぁと思うのであったよ。
学生も、もう少し来ると思ったんだけど……。
さて、プログラム。
0 上利博規 「世界の演劇文化の楽しみ方」のはじめに
1 鈴木実佳 The Taming of the Shrew
2 花方寿行 『スカパンの悪だくみ』とスペイン文学・演劇
3 岡崎真紀子 唐十郎「ふたりの女」へのアプローチ ―日本文学研究の立場から
4 上利博規 インドの演劇文化とクーリヤッタム
5 ディスカッション
6 修了証書授与式
0
前説。年表や考え方のヒントのような物を提示。
面白そうだったけど後半に繋がっていかなかったのは残念。
1
シェクスピアの肖像に関する新しいニュースが枕。
一番の衝撃は……、
と書く前に、試しにエキサイトの翻訳サイトで「The Taming of the Shrew」を訳すと……
なんと、
じゃじゃ馬馴らしでした!
いや、当たり前、ですか?
The taming だけだと「飼いならすこと」OK。
the Shrew は、「がみがみ女」です。
shrew だけにすると……、あ、やっぱり「がみがみ女」だ。
で、さて、ウィキペディアで「shrew」。トガリネズミと言うらしいです。
馬はどこへ行ったんだ??
トガリネズミは飼い慣らせるのか??
シェクスピア劇の邦題って、坪内逍遙がつけたのかなぁ。
フェミニズム解釈・反フェミニズム解釈……。
そしてフレームの話。
やっぱりシェクスピアはただ者ではない。
でも、400年前の「限界」が必ずある。
いま、どう挑むのか、というのはやっぱり面白い問題なんだろうなぁ。
2
フランスの劇作家モリエールの作品の話なんだけれど、「文学」先進地だった16世紀後半から17世紀に至るスペインの小説や芝居が、どう踏まえられているのか、と言う見取図を、そこに「ピカレスク」というスペイン語起源のキーワードを置きながら具体的な作品に即して紹介。
ヨーロッパって、繋がってるなぁ、と言う実感。
カーニバル的な価値観の転覆の話とは別に、ピカロの居場所の変容みたいな物が見えて面白い。
3
「ふたりの女」は、『源氏物語』の六条御息所生き霊の話を踏まえている。
同じ部分は、能にもあるし、三島の『近代能楽集』でも取り上げられた。
短い時間ながら、それぞれの作品を比較しながら、“古典”という問題を再照射してみせる。
新しい作品生成のための想像力の型としての古典という視点は、まさに岡崎学。
4
インダス文明以来の演劇文化の流れを説明したあと、寺院内で信仰と結びつきながら行われてきた演劇・舞踊が、イギリスによる植民地支配の中で“発見”され、今は、世界中が知ることになったという、その流れの中で、信仰の場、滅びつつある伝統文化と、劇場空間に押し出されることで生き残る“文化遺産”という問題。
これはこれで、日本の地方芸能でも常に問題になることだ。
ディスカッションの中でも、“神無き時代”の祝祭空間というような話もあり……。
時間足りないなぁ、という感じ。
かといって、数日掛けて、と言うと、相互交流が出来なくなるし、このくらいで終わって、あとはそれぞれに持ち帰って話し合うくらいで良いんじゃないかと思う。
古典回帰といい、温故知新と言う。
実際の所、もう神はいないし、踏まえているはずの共通の古典も物語も既に無い。
だから、古典は、なぜだか判らないけれど学ばねばならない課題のような扱いを受けてしまう。
少し話が違うのだけれど、先日、現代の地方小出版をどうするか、という話の中で、駿河版銅活字や本木昌造のことを調べて意味があるのか、という疑問が出た。
たしかに、技術史の知識が増えても、そこから、未来へのヒントは得られないかも知れない。
しかし、家康や羅山がどんな時代背景で、何をしようとしたのか、本木昌造、或いは、本木家とは、なんだったのか、という視点は、現在のメディア状況のなかで、印刷や出版がどうあるべきか、ということを考える時の補助線の一つにはなるんじゃないのかな、と思っている。
江戸時代の書籍商史の話は、もっと参考になるだろう。
で、やっぱり、
というところに行き着くのだね。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます