コニタス

書き留めておくほど重くはないけれど、忘れてしまうと悔いが残るような日々の想い。
気分の流れが見えるかな。

うろ覚えの出典

2005-02-15 08:38:44 | 
閉じた所の話で恐縮だが、ちょっと面白いことがあったので、こっちで考察を披露。

日記に、
なんだかだなぁ。「友がみなえらくみゆるひ」です。毎日。
と書いた。
で、皆、啄木の引用だと言うことはすぐに察知して、

>こうなったら、上野駅に行くしか無いでしょう!

>啄木かよっ!!

>あとは、花を買ってくるしかないでしょう!

>・・・たしなみますか・・・。 日本語って美しいなぁ。。。


等々、いろいろコメントをくれた。

しかし、実際の啄木の歌(『一握の砂』所収)は
友がみなわれよりえらく見ゆる日よ
花を買ひきて
妻としたしむ

が正しいらしい。
石川啄木記念館 啄木歌ごよみ

私ははうろ覚えで、歌集を確認せずに書いたので、据わりが悪いなと思いながら「われより」を抜かしていたし、漢字の使い方も上記原典(啄木記念館の表記を信じるとして)とは違う。

もう一つよけいなことを言うと、四つ目のコメントにある「たしなむ」は、この歌の誤伝らしく、googleで検索すると、五句目が「たしなむ」になっている例があるにはある。いや、あるいは、誤伝ではなく、初案とか、別案があるやも知れぬ。

さて、私の「引き歌」は、こういう事情でえらく半端なモノになっている。
ここからが本題。

文学研究に於いて、典拠研究は非常に重要。その表現が、何に拠ったのか、それは、そもそもの原典という意味ではなく、実際に、どんな情報源を用いているか、と言うところまで明らかにすることで、作者の書斎を再現する手だてともなるのだ。また、それが、当時の読者にどう映るのか、と言うことも、同時に考察しなければならない。

私が日記に「引き歌」をしたとき、当然、啄木は意識したし、読む人はこれで十分解るだろうと判断した。けれども、原典の確認はしなかった(歌集は持っているけれど、家においてあるので。ちなみに、多分中学生ぐらいの時に買った旺文社文庫)。
そのために生じた「誤記」を、読者がどう受け取るか。たとえば、注釈はどうつけ得るのか。

註:石川啄木『一握の砂』(○○年×月 △△刊、初出は▽▽)による。

ではすまされない。たとえば、

上三、正しくは「友がみなわれよりえらく見ゆる日よ」。この表記を取る資料は未見。引用者の記憶違いか。

と言うようなコメントが必要になる。
引き合いに出すのもおこがましいが、実際『おくのほそ道』平泉の条で、芭蕉は杜甫の詩を引くが

國破れて山河あり城春にして草みたりと……

と、かえている。これについては、今では「転じた」というのが通説だと思うが、記憶違いがないとも言えない。当時そういう訓読がなされていたのでは、と言う説もあった。そこが明らかにならないと、芭蕉のねらいを見誤ることになりかねない。

ネットで歌の一節を引いている例は多い。勝手に句読点をつけたり、用字を変えたり、相当いじったモノも見かける。場合によると作者や出典そのものを誤っているモノもある。そういう情報が流通し、場合によってはそれを参考にしながら新しい「作品」が作られていく。それ自体、けしからん、と言うつもりはなく、伝承というのはそういうモノだと思うのだけれど、さて、こうした「創作活動」の「現場」を後の人たちは、どうやって再現するのだろうか。


余談なのだけれど、コメントの一つめで「上野駅」が出てくるのは、もう一つの有名な歌を暗示したモノと思われ、気が利いている。これについてはまた一つ面白い思い出がある。

私の記憶がどこかで混線しているのでなければ、この歌の解釈について最初に聴いたのは、小学校一年の時だった。教師の顔と、その“訛り”がセットになって記憶されている。そのとき、「“そ”とは、“方言”のことですよ」と教わった。間違いない。正しい。しかし、幼い私には、それでは全く以て説明不十分だったのだ。“そ”という“単語”の“意味”が、“方言”なのだ、と理解した。指示代名詞を知らなかったのだ。
小学生に教えるなら「“そ”は、“それ”のこと、“それ”は、“ふるさとのなまり”つまり、“方言”をさすのだ」と段階を踏んでくれなければならなかった。

こんなばかげた話を30年以上憶えているのも妙だが、実はこれには続きがある。大学院生の時、方言が専門の先輩に、何かの拍子にこの話をしたら、「えー!、そって、方言て言う意味なんじゃないの?!」と驚かれてしまった。つまり、彼も、幼少の時に、同じ刷り込みが行われていたのだ。思うに、当時の指導書に、「“そ”は、方言のこと」とか何とか書かれていて、教師もよくわからないままさらっと過ぎてしまったのではなかろうか。子どもは案外細部を記憶している。おそるべしおそるべし。

近代の擬古的な文章は、本当に勘違い記憶が多いので注意が必要。

いまこそわかれめ
おもへばいととし
あしたはまべをさまよへば
おはれてみたのは

きりがないね。

はなしがそれた。
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3 コメント

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Unknown (たなかけつ)
2005-02-15 17:19:16
Z会に出ていたのでよく覚えております<こそ、已然形



わたしが昔、「トンネルをつくるのは『道路が造れないところ』なんだよ」と教わった事が似たような体験かと思われます。



「トンネルの中にも道路があるじゃない?」と、反論もできずに黙っていましたが、あるとき、「そうか、オープンカットとか坂道で上れないところのことを『道路が造れないところ」と説明したんだな。」と理解できました(笑)。
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ややや (R)
2005-02-17 20:07:23
私も、

たった今インフルエンザから立ち直ったばかりの

ぼうっとした頭でこれを読むまで、

“そ”という言葉自体が方言なのだと思ってました。



いや、確かにそう小学校の沖野先生に習った記憶がある。

沖野先生もそう確信してたに違いない。



今思うと、その他にもいい加減なことを教えてたと思う。

沖野先生。

でも、その頃の沖の先生の年齢になって、

教師だって万能じゃないってことを知りました。

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えー! (こにた)
2005-02-17 20:14:28
思わず『広辞苑』引いちゃいましたよ。

間違いないですって。



でも、Rさんの証言貴重。

探したら結構いそうですね。



教師は理解してるのに伝え方が悪い、といういり、どうも、教師も理解してなかったフシがあります。私の場合も。



教師は万能ではない、と言うことに早く気づかせるために日夜ダメ教師を演じております(とか言ってみたり)。
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