去年も思ったことなんだけれど、吉野さんの話を聞いていると、これこそが伝えたいことなんだと思う。
それが、学生達に「知識」の一つとして伝わるのか、生き方にまで浸透するのか、という所が問題なのだけれど。
利休と織部の器をめぐる話。
今年は韓国で李朝の井戸茶碗が正確に再現されている、という現地報告が加わってより解りやすくもなった。
「古人の跡を求めず、古人の求めしところを求めよ」という話は前にも書いているんだけれど、まさにこのこと。
そして「一座建立」の話。
みんなわかってくれたのかなぁ。
マナーとルールのことを前にも書いた。
茶の作法は、近世にかなり体系化され、近代に入って相当窮屈にマニュアル化されている。
吉野白雲さんは、究極、茶道にお茶はいらない、と仰る。
これ自体禅問答のようだけれど、実際、茶を体験することで、「お茶をやってますのよ」といって、一通り誤り無く出来る人が、行き帰りの電車の中では傍若無人では、全く意味がない(このことは既に『諸芸袖日記』の中にちゃんと書かれているわけですよ)。
私の研究室の前には「廊下で喋るな」と大書(って、印刷ですが)した紙が貼ってある。
それでもうるさい。
主に日本史の学生達で、なぜか、この辺で立ち止まる。
で、それには一定の効果もあったように思うのだけれど、学生研究室のドアを開放したまま(これはきっとずっと昔に何か理由があってそうなったんだろう)、高笑いをする。そして時に、ここまで食事の匂いが届く。
「廊下では喋ってませんよ」といわれるのがオチだし、直接の指導教員が何も言わないのだからこれ以上言うまいと思うのだけれど、この人達(実は毎年引き継がれている)の想像力の欠如には恐れ入る。
自他。
自らを滅して他者を利するようにせよ、ということではない。
自他を一つの存在として、心地よい物を模索すれば、自ずから一つの答えが見えてくる。
それが、研ぎ澄まされた形としてあるのが、茶道の中にある「型」だ。
だから、極端な話、全くお茶を経験したことのない人が、作法通りの振る舞いを見せることはあり得ない話ではないし、茶道を究めた人は、他の場面でも、その時その場所であるべき状態を現出する力を持っている。
私などにはとてもたどり着けない境地であるけれど、白雲さん、亜湖さんを見ていると、さもありなんと思える。
受講生の一人が、波乗りに似ている、と書いてくれた。
私はサーフィンをしない。
ただ、海好きの私には、この感想はよく解る。
波の荒い岩場で潜っている時の感覚。
海は、戦うべき他者ではない。
かといって、完全に委ねてしまうべき物でもない。
身体が環境と絶えず会話している。
海や川で大きなケガをする人たちは、アタマで考えてるんだろうなぁ。
この授業は深いよ。
それが、学生達に「知識」の一つとして伝わるのか、生き方にまで浸透するのか、という所が問題なのだけれど。
利休と織部の器をめぐる話。
今年は韓国で李朝の井戸茶碗が正確に再現されている、という現地報告が加わってより解りやすくもなった。
「古人の跡を求めず、古人の求めしところを求めよ」という話は前にも書いているんだけれど、まさにこのこと。
そして「一座建立」の話。
みんなわかってくれたのかなぁ。
マナーとルールのことを前にも書いた。
茶の作法は、近世にかなり体系化され、近代に入って相当窮屈にマニュアル化されている。
吉野白雲さんは、究極、茶道にお茶はいらない、と仰る。
これ自体禅問答のようだけれど、実際、茶を体験することで、「お茶をやってますのよ」といって、一通り誤り無く出来る人が、行き帰りの電車の中では傍若無人では、全く意味がない(このことは既に『諸芸袖日記』の中にちゃんと書かれているわけですよ)。
私の研究室の前には「廊下で喋るな」と大書(って、印刷ですが)した紙が貼ってある。
それでもうるさい。
主に日本史の学生達で、なぜか、この辺で立ち止まる。
で、それには一定の効果もあったように思うのだけれど、学生研究室のドアを開放したまま(これはきっとずっと昔に何か理由があってそうなったんだろう)、高笑いをする。そして時に、ここまで食事の匂いが届く。
「廊下では喋ってませんよ」といわれるのがオチだし、直接の指導教員が何も言わないのだからこれ以上言うまいと思うのだけれど、この人達(実は毎年引き継がれている)の想像力の欠如には恐れ入る。
自他。
自らを滅して他者を利するようにせよ、ということではない。
自他を一つの存在として、心地よい物を模索すれば、自ずから一つの答えが見えてくる。
それが、研ぎ澄まされた形としてあるのが、茶道の中にある「型」だ。
だから、極端な話、全くお茶を経験したことのない人が、作法通りの振る舞いを見せることはあり得ない話ではないし、茶道を究めた人は、他の場面でも、その時その場所であるべき状態を現出する力を持っている。
私などにはとてもたどり着けない境地であるけれど、白雲さん、亜湖さんを見ていると、さもありなんと思える。
受講生の一人が、波乗りに似ている、と書いてくれた。
私はサーフィンをしない。
ただ、海好きの私には、この感想はよく解る。
波の荒い岩場で潜っている時の感覚。
海は、戦うべき他者ではない。
かといって、完全に委ねてしまうべき物でもない。
身体が環境と絶えず会話している。
海や川で大きなケガをする人たちは、アタマで考えてるんだろうなぁ。
この授業は深いよ。
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