正直忙しい。
今日は前期日程の入学手続きの日(これ、本気で重要)。
確定申告(去年も郵送だったので、今日送るつもり)もまだだし。
原稿かけてないし……。
今夜は門前塾発表会だし……。
熊谷守一あたりから、私を取り巻いている「気」のような物が、うまく回り始めてる。
Iさんにご紹介いただいた岡村監督のブラジル移民関連作品の上映会もヒットで、そのあと旅立たれたIさんから譲られたチケットで見た映画(なぜかこれもブラジル物、「This is BOSSA NOVA」 )が、素晴らしい作品で(このことはまた別に書く予定)。
で、けさ、一柳さん経由で明日の物研のシンポジウムの情報が入った。
幽霊から心霊へ ―近代日本における「霊」言説の変容をめぐって 一柳廣孝
軍記文学における「亡霊」的なるもの 樋口大祐
死者の主体を語れるか ―他者表象における想像力とジレンマ― 北條勝貴
『雨月物語』と怪異 長島弘明
北條さんという方のブログに発表要旨も載っています。
この人コニタスと同じテンプレート(私の方がちょっと先だけどな。えへん)。
実際に使ってる例、初めて見た。
これも何かの縁でしょう。
一柳さんや長島さんが興味深いのは言うまでもないんだけれど、面識のないお二人のテーマが面白そう。
前に私が書いて、誰からも反応がない(みんなそうなんだけど)こんなやつとかぶる。
例えば『平家物語』が平氏の亡霊達、「モノ」による語りであるという民俗学的な考えは、憑霊という現象を認めなければ成り立たないと言う重大な陥穽があった。語り手達自身がそのように信じていたとしても、また、同時代的にそれが受け容れられていたとしても、それは、フレームそのものが「虚構」であるとしか言いようがないではないか。そう考えると、『平家物語』等の物語は、文字言語として記述され「本文」が固定されると言う形で権力によって収奪される以前に、つまり、「物語」として立ち上がったその時既に、巧妙な形で共同体の側に身を委ねていたことになる。死者が語ることで成仏できるという発想そのものが、結果的には現世の共同体の安定のために機能するしかなく、死者の言葉は永遠に語り得ないと言うことさえ隠蔽されてしまう。「排除された死者の言葉を語り得る者」を捏造したシステムそのものが問われなければならない。
まぁ、ニューヒストリー→サバルタン論の洗礼を受けた歴史学の中にいるわけだから、こういう発想は必然だとおもうんだけれど、身近なところには案外いないので、やっと話し相手が出来そうだぁ、という感じです。
私のは付け刃だけども。
抜き刷り持っていこうかなぁ。
色々ほったらかしにしてはいけないあれやこれやが気になるけれど、こういう時は動いて吉、というのは私の教訓。
*追記
迷惑トラックバックが多かったので切っていたのですが、北條氏のブログが「トラックバックの事前承認機能」と言うのを使っていたので、ちょっとまねしてみる事にしました。
前向きのトラックバックは歓迎です。
今日は前期日程の入学手続きの日(これ、本気で重要)。
確定申告(去年も郵送だったので、今日送るつもり)もまだだし。
原稿かけてないし……。
今夜は門前塾発表会だし……。
熊谷守一あたりから、私を取り巻いている「気」のような物が、うまく回り始めてる。
Iさんにご紹介いただいた岡村監督のブラジル移民関連作品の上映会もヒットで、そのあと旅立たれたIさんから譲られたチケットで見た映画(なぜかこれもブラジル物、「This is BOSSA NOVA」 )が、素晴らしい作品で(このことはまた別に書く予定)。
で、けさ、一柳さん経由で明日の物研のシンポジウムの情報が入った。
幽霊から心霊へ ―近代日本における「霊」言説の変容をめぐって 一柳廣孝
軍記文学における「亡霊」的なるもの 樋口大祐
死者の主体を語れるか ―他者表象における想像力とジレンマ― 北條勝貴
『雨月物語』と怪異 長島弘明
北條さんという方のブログに発表要旨も載っています。
この人コニタスと同じテンプレート(私の方がちょっと先だけどな。えへん)。
実際に使ってる例、初めて見た。
これも何かの縁でしょう。
一柳さんや長島さんが興味深いのは言うまでもないんだけれど、面識のないお二人のテーマが面白そう。
前に私が書いて、誰からも反応がない(みんなそうなんだけど)こんなやつとかぶる。
例えば『平家物語』が平氏の亡霊達、「モノ」による語りであるという民俗学的な考えは、憑霊という現象を認めなければ成り立たないと言う重大な陥穽があった。語り手達自身がそのように信じていたとしても、また、同時代的にそれが受け容れられていたとしても、それは、フレームそのものが「虚構」であるとしか言いようがないではないか。そう考えると、『平家物語』等の物語は、文字言語として記述され「本文」が固定されると言う形で権力によって収奪される以前に、つまり、「物語」として立ち上がったその時既に、巧妙な形で共同体の側に身を委ねていたことになる。死者が語ることで成仏できるという発想そのものが、結果的には現世の共同体の安定のために機能するしかなく、死者の言葉は永遠に語り得ないと言うことさえ隠蔽されてしまう。「排除された死者の言葉を語り得る者」を捏造したシステムそのものが問われなければならない。
まぁ、ニューヒストリー→サバルタン論の洗礼を受けた歴史学の中にいるわけだから、こういう発想は必然だとおもうんだけれど、身近なところには案外いないので、やっと話し相手が出来そうだぁ、という感じです。
私のは付け刃だけども。
抜き刷り持っていこうかなぁ。
色々ほったらかしにしてはいけないあれやこれやが気になるけれど、こういう時は動いて吉、というのは私の教訓。
*追記
迷惑トラックバックが多かったので切っていたのですが、北條氏のブログが「トラックバックの事前承認機能」と言うのを使っていたので、ちょっとまねしてみる事にしました。
前向きのトラックバックは歓迎です。
以前、このテンプレート自体を目にしたことはあったのですが、私も同業者でというのは初めてです。いろいろご縁を感じます(カトリックの大学に勤めていますが、私は僧侶でもあります)。
最近は私立大学教員も春休みなどほとんどない状態で、私も昨日ようやくシンポのレジュメ作成を開始できたところです。論客揃いのモノ研、しかもビッグ・ネームのパネリストばかりなので、もう少しちゃんと準備をしておきたかったのですが、残念かつ不安です。
お聴き苦しい点も多々あるかと思いますが、どうかご容赦を。
びっくり。
明日、楽しみです。
以後お見知りおきを。