久しぶりに天一坊を授業で扱っている。
で、ふと思いついて、今朝、ウィキペディアを覗いてみた。
以下、本文を引用。
天一坊事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
天一坊事件(てんいちぼうじけん)とは江戸時代中期、品川で天一坊改行なる山伏が将軍・徳川吉宗の御落胤を称して浪人を集めていたが、捕らえられ獄門になった事件である。大岡越前の裁判を集めた講談『大岡政談』に収められ、大岡越前の名裁き「天一坊物」として歌舞伎や映画、小説の題材になっているが、実際には大岡越前はこの裁きには関係していない。
経過
享保13年(1728年)夏、浪人・本多儀左衛門が関東郡代・伊奈半左衛門の屋敷を訪ね、南品川宿の山伏常楽院方に将軍の血筋で源氏天一坊なる人物がいて近々大名にお取り立てになると称し、浪人を大勢召抱えて役儀などを与えているとの問い合わせがあった。
伊奈は不審なことであるとして、常楽院の名主、地主を呼びつけて尋問した。取り調べの結果、常楽院方で浪人を集めているのは改行という山伏で、紀州生まれで将軍・吉宗の落胤を称していることが解った。伊奈は上司(勘定奉行)に報告して、指図を仰いだ。報告は老中を通じて吉宗に伝えられた。吉宗はこれに対して、どうやら「覚えがある」と言ったようである。吉宗は身体強健でその上に剛毅な人柄であり、紀州時代に女性関係が多々あったとしても不思議はない。御落胤の話が本当である可能性があったため、関東郡代ではすぐに天一坊を捕らえることはせず、時間をかけて慎重に調べた。
半年以上たった翌享保14年(1729年)3月、伊奈は天一坊と常楽院(天一坊の家老と称して赤川大膳を名乗っている)その他の関係者を郡代屋敷へ呼びつけ詮議した。
天一坊の口上によれば、天一坊は元禄12年(1699年)、紀州田辺の生まれで、母が城へ奉公へ出て妊娠したので実家へ帰されて産まれたという。その後、母とともに江戸へ出て、母は町人と縁づいた。母は由緒書などを持っていたがこれは焼失してしまったが、母から『吉』の字を大切にせよと言い聞かされていたという。14歳のとき母が死に、出家して山伏となり改行を名乗った。死んだ伯父から「公儀からおたずねがあるであろう」と言われた。これらのことから、自分の素性が高いものであり、紀州の生まれであって『吉』のことも考え合わせて、自分は公方様の御落胤であり、近々大名に取り立てられると考え、浪人たちの来るにまかせた次第であるということだった。
常楽院や浪人たちを取り調べたところ、天一坊は彼らに、自分は公方様にお目通りして、お腰物を拝領した。公儀から扶持を賜ったが、遊女町で暴れたために停止になってしまった。そのため、上野の宮様におとりなしを頼んでいる。上野で公儀の法事があったので参詣し銀30枚を香典として差し上げた...などと語っていたことが解った。もちろん、これらのことは真っ赤な偽りであった。天一坊は浪人を常楽院方に集めて大名に取り立ての際は、おのおのに役職を与えると約束していた。
天一坊は公方様の御落胤を騙り、みだりに浪人を集めたとして捕らえられ、4月に勘定奉行稲生下野守正武から判決申し渡りがあり、4月21日に死罪の上、品川で獄門となった。天一坊のもとに集まっていた常楽院や浪人たちも遠島や江戸払いとなり、名主や地主も罰を受けた。検挙の端緒をつくった浪人本多儀左衛門には銀5枚の褒美があった。
大岡政談
この事件は、後に『大岡政談』に取り入れられ大岡越前守の名裁きのひとつとされた。実際には大岡越前守はこの事件には全く関係していない。江戸時代末期には講談師神田伯山の『大岡政談天一坊』が大評判となり、歌舞伎の題材にも取り入れられて『天一坊大岡政談』となった。近現代でも「大岡裁き」の代表的なものとして小説や映画、テレビドラマの題材となっている。
最終更新 2008年4月19日 (土) 01:43。
昔私が書いた記事と比較してみましょう。
天一坊(てんいちぼう)
徳川吉宗の落胤を称して処刑された人物。【生没】?~享保十四(一七二九)【伝説・歴史】同時代の資料によれば、事件は享保十四年三月、関東郡代伊奈半左衛門の用人のもとに浪人が問い合わせに訪れて発覚した。品川宿の常楽院という山伏のもとに源氏坊(天一坊改行)という者がいて、高貴な由緒を言い立て、近々大名になると言って家臣を集めているが本物か、というのである。早速捕らえて吟味し、四月二十一日、天一坊は死罪、関係者も処罰され、訴えた浪人本多儀左衛門には褒賞があった。これが事件の概要である。母親が紀州家に関係があったのも事実らしく、本人は信じていた節もあり、初期の資料には偽物である根拠は示されていない。この事件は相当注目されたらしく、急速に尾鰭がついて行く。吟味の様子や紀州での吉宗と母親の逸話が生まれ、ついで出生から成長過程、一味の結成、計画の遂行・幕府方との対決などが、徐々に増補され、大岡政談の一つに数えられるようになる。こうして幕末まで成長を続け、最終段階に達したのが、初代神田伯山の講談と関係が深いと考えられる実録「天一坊実記」の形である。--以下略--
(『日本説話伝説大事典』00,6 勉誠出版)
あれれ。最初っから食い違ってるぞ。
履歴を見ると、05年の大晦日から、12回にわたって添削されて今に至っていることも判る。
しかし、私にとって肝心なところは、一度も議論されずにいる。
なぜだろう。
本多儀左衞門が郡代屋敷に問い合わせに行ったのはいつなんだろうか。
このことについて、いま、私に言えることは、とても少ない。
私が辞書の記事を書いたのはもう10年近く前だし、実際に修士論文のために調べていたのは四半世紀前の話だ。その後新しい資料が出てきたのかも知れない。
それにしても、ウィキペディアの記事は、何がもとなんだか判らない。
さしあたり、私としては、今朝の授業で次のようなことを話した。
これはあくまでも、自分が正しいという前提の上での推測。
ここを読む皆さんにご判断いただきたい。
私が
「同時代の資料によれば、事件は享保十四年三月、関東郡代伊奈半左衛門の用人のもとに浪人が問い合わせに訪れて発覚した。」と書いた根拠は、私の論文、26頁の表を御覧戴ければ判る。
同時代資料には、問い合わせがいつだったかは明記されていないのだけれど、逮捕までにそれほどの時間を要したようには書かれていない。むしろ、迅速に対応し、享保14年3月6日逮捕、同年4月21日処刑と読める。
「享保13年夏」はどこから来たのだろう。
「御落胤の話が本当である可能性があったため、関東郡代ではすぐに天一坊を捕らえることはせず、時間をかけて慎重に調べた。」と言うのも、私の見ていない情報だ。
ところで、私が引用している資料のうち、『雑話筆記』には、「享保十四ノ年夏不思議ノ珍事アリ」という記述がある。『雑話筆記』は同時代の講釈師、神田白龍子のネタ帳のような本だから、多少の脚色はあっても信憑性は高い。この本の異本に十三年という記述があるんだろうか。
調べが足りない。
自分のことは棚上げして、とりあえず、ウィキペディアの記述が間違っている可能性について考えてみよう。
そのばあい、慎重に吟味した、と言う情報の根拠もないという前提になるので、苦しいのは事実なんだけれど。
単純に、記事が享保十四年夏で始まると事件が三月に戻るのが不自然だと思ったのかもしれない。
しかし、最初の一文は、事件全体(と言うか、決着)のことを言っているのであって、最初の訴えの時期を示しているわけではない。処刑は4月21日なのだから、それで問題はないはずだ。
そこではたと思い至ったことがある。
こういうことを書く人がそんなミスをするはずもないとは思うのだけれど、ひょっとすると、記事を書いた人は4月を夏だとは思っていなかったのではないか……、と言う疑問。言うまでもないことだが、旧暦では4月から6月までが夏だ。
そう考えると、「半年以上たった翌享保14年(1729年)3月」と言う不自然さもわかる。今の季節感から言えば、夏から3月までは「半年以上」で違和感がないが、江戸時代の感覚ならむしろ「一年近く」経過している。
ここで私の想像は更に膨らむ。
この記者は、前年の夏に訴えがあったのだろうと考えた。
そうなると、3/6までの「半年以上」何をしていたのか疑問になる。
そこで、慎重に調べたのではないか、と推測する。
つまり、記事の三段落目は、つじつまを合わせるために作られた話なのではないのか。
あるいは、私の見ていない資料の中に、この話を裏付けるような記述があるのかも知れない。
しかし、私は、よほどのことがない限り、私が20年前に引用した資料群の記述を覆せるとは思えない。
だから、私の書いた記事は、ちょっと読みづらいけれど、訂正する気はない。
ウィキペディアの記事を自分でいじる気もないけれど。
まぁ、ネット辞書だろうが、学術論文だろうが、出典を明記しないで書かれている記述は一つ一つ裏を取った方が良い、というのは、当たり前の教訓。
今日の授業では、だいたい以上のような話をした。
あぁそうそう。授業中にもう一つ気づいて話したこと。
「南品川宿の山伏常楽院方に将軍の血筋で源氏天一坊なる人物がいて」という記述も疑問。「天一坊」という表現はあるけれど、基本的には「源氏坊天一」であって、「源氏天一坊」ではない。これも、もとが判らない。
しかし、問題は、実は、どっちが正しいか、ではない。
蓋然性の問題でしかないのだ。
「物語」としての整合性が、「事実」になる。
実録は、成長の過程で、問題発覚から最終決着までの時間をどんどん引き延ばしていく。
それが、彼らにとっての「事実」だったからだ。
歴史は、そう言うところにある。
で、ふと思いついて、今朝、ウィキペディアを覗いてみた。
以下、本文を引用。
天一坊事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
天一坊事件(てんいちぼうじけん)とは江戸時代中期、品川で天一坊改行なる山伏が将軍・徳川吉宗の御落胤を称して浪人を集めていたが、捕らえられ獄門になった事件である。大岡越前の裁判を集めた講談『大岡政談』に収められ、大岡越前の名裁き「天一坊物」として歌舞伎や映画、小説の題材になっているが、実際には大岡越前はこの裁きには関係していない。
経過
享保13年(1728年)夏、浪人・本多儀左衛門が関東郡代・伊奈半左衛門の屋敷を訪ね、南品川宿の山伏常楽院方に将軍の血筋で源氏天一坊なる人物がいて近々大名にお取り立てになると称し、浪人を大勢召抱えて役儀などを与えているとの問い合わせがあった。
伊奈は不審なことであるとして、常楽院の名主、地主を呼びつけて尋問した。取り調べの結果、常楽院方で浪人を集めているのは改行という山伏で、紀州生まれで将軍・吉宗の落胤を称していることが解った。伊奈は上司(勘定奉行)に報告して、指図を仰いだ。報告は老中を通じて吉宗に伝えられた。吉宗はこれに対して、どうやら「覚えがある」と言ったようである。吉宗は身体強健でその上に剛毅な人柄であり、紀州時代に女性関係が多々あったとしても不思議はない。御落胤の話が本当である可能性があったため、関東郡代ではすぐに天一坊を捕らえることはせず、時間をかけて慎重に調べた。
半年以上たった翌享保14年(1729年)3月、伊奈は天一坊と常楽院(天一坊の家老と称して赤川大膳を名乗っている)その他の関係者を郡代屋敷へ呼びつけ詮議した。
天一坊の口上によれば、天一坊は元禄12年(1699年)、紀州田辺の生まれで、母が城へ奉公へ出て妊娠したので実家へ帰されて産まれたという。その後、母とともに江戸へ出て、母は町人と縁づいた。母は由緒書などを持っていたがこれは焼失してしまったが、母から『吉』の字を大切にせよと言い聞かされていたという。14歳のとき母が死に、出家して山伏となり改行を名乗った。死んだ伯父から「公儀からおたずねがあるであろう」と言われた。これらのことから、自分の素性が高いものであり、紀州の生まれであって『吉』のことも考え合わせて、自分は公方様の御落胤であり、近々大名に取り立てられると考え、浪人たちの来るにまかせた次第であるということだった。
常楽院や浪人たちを取り調べたところ、天一坊は彼らに、自分は公方様にお目通りして、お腰物を拝領した。公儀から扶持を賜ったが、遊女町で暴れたために停止になってしまった。そのため、上野の宮様におとりなしを頼んでいる。上野で公儀の法事があったので参詣し銀30枚を香典として差し上げた...などと語っていたことが解った。もちろん、これらのことは真っ赤な偽りであった。天一坊は浪人を常楽院方に集めて大名に取り立ての際は、おのおのに役職を与えると約束していた。
天一坊は公方様の御落胤を騙り、みだりに浪人を集めたとして捕らえられ、4月に勘定奉行稲生下野守正武から判決申し渡りがあり、4月21日に死罪の上、品川で獄門となった。天一坊のもとに集まっていた常楽院や浪人たちも遠島や江戸払いとなり、名主や地主も罰を受けた。検挙の端緒をつくった浪人本多儀左衛門には銀5枚の褒美があった。
大岡政談
この事件は、後に『大岡政談』に取り入れられ大岡越前守の名裁きのひとつとされた。実際には大岡越前守はこの事件には全く関係していない。江戸時代末期には講談師神田伯山の『大岡政談天一坊』が大評判となり、歌舞伎の題材にも取り入れられて『天一坊大岡政談』となった。近現代でも「大岡裁き」の代表的なものとして小説や映画、テレビドラマの題材となっている。
最終更新 2008年4月19日 (土) 01:43。
昔私が書いた記事と比較してみましょう。
天一坊(てんいちぼう)
徳川吉宗の落胤を称して処刑された人物。【生没】?~享保十四(一七二九)【伝説・歴史】同時代の資料によれば、事件は享保十四年三月、関東郡代伊奈半左衛門の用人のもとに浪人が問い合わせに訪れて発覚した。品川宿の常楽院という山伏のもとに源氏坊(天一坊改行)という者がいて、高貴な由緒を言い立て、近々大名になると言って家臣を集めているが本物か、というのである。早速捕らえて吟味し、四月二十一日、天一坊は死罪、関係者も処罰され、訴えた浪人本多儀左衛門には褒賞があった。これが事件の概要である。母親が紀州家に関係があったのも事実らしく、本人は信じていた節もあり、初期の資料には偽物である根拠は示されていない。この事件は相当注目されたらしく、急速に尾鰭がついて行く。吟味の様子や紀州での吉宗と母親の逸話が生まれ、ついで出生から成長過程、一味の結成、計画の遂行・幕府方との対決などが、徐々に増補され、大岡政談の一つに数えられるようになる。こうして幕末まで成長を続け、最終段階に達したのが、初代神田伯山の講談と関係が深いと考えられる実録「天一坊実記」の形である。--以下略--
(『日本説話伝説大事典』00,6 勉誠出版)
あれれ。最初っから食い違ってるぞ。
履歴を見ると、05年の大晦日から、12回にわたって添削されて今に至っていることも判る。
しかし、私にとって肝心なところは、一度も議論されずにいる。
なぜだろう。
本多儀左衞門が郡代屋敷に問い合わせに行ったのはいつなんだろうか。
このことについて、いま、私に言えることは、とても少ない。
私が辞書の記事を書いたのはもう10年近く前だし、実際に修士論文のために調べていたのは四半世紀前の話だ。その後新しい資料が出てきたのかも知れない。
それにしても、ウィキペディアの記事は、何がもとなんだか判らない。
さしあたり、私としては、今朝の授業で次のようなことを話した。
これはあくまでも、自分が正しいという前提の上での推測。
ここを読む皆さんにご判断いただきたい。
私が
「同時代の資料によれば、事件は享保十四年三月、関東郡代伊奈半左衛門の用人のもとに浪人が問い合わせに訪れて発覚した。」と書いた根拠は、私の論文、26頁の表を御覧戴ければ判る。
同時代資料には、問い合わせがいつだったかは明記されていないのだけれど、逮捕までにそれほどの時間を要したようには書かれていない。むしろ、迅速に対応し、享保14年3月6日逮捕、同年4月21日処刑と読める。
「享保13年夏」はどこから来たのだろう。
「御落胤の話が本当である可能性があったため、関東郡代ではすぐに天一坊を捕らえることはせず、時間をかけて慎重に調べた。」と言うのも、私の見ていない情報だ。
ところで、私が引用している資料のうち、『雑話筆記』には、「享保十四ノ年夏不思議ノ珍事アリ」という記述がある。『雑話筆記』は同時代の講釈師、神田白龍子のネタ帳のような本だから、多少の脚色はあっても信憑性は高い。この本の異本に十三年という記述があるんだろうか。
調べが足りない。
自分のことは棚上げして、とりあえず、ウィキペディアの記述が間違っている可能性について考えてみよう。
そのばあい、慎重に吟味した、と言う情報の根拠もないという前提になるので、苦しいのは事実なんだけれど。
単純に、記事が享保十四年夏で始まると事件が三月に戻るのが不自然だと思ったのかもしれない。
しかし、最初の一文は、事件全体(と言うか、決着)のことを言っているのであって、最初の訴えの時期を示しているわけではない。処刑は4月21日なのだから、それで問題はないはずだ。
そこではたと思い至ったことがある。
こういうことを書く人がそんなミスをするはずもないとは思うのだけれど、ひょっとすると、記事を書いた人は4月を夏だとは思っていなかったのではないか……、と言う疑問。言うまでもないことだが、旧暦では4月から6月までが夏だ。
そう考えると、「半年以上たった翌享保14年(1729年)3月」と言う不自然さもわかる。今の季節感から言えば、夏から3月までは「半年以上」で違和感がないが、江戸時代の感覚ならむしろ「一年近く」経過している。
ここで私の想像は更に膨らむ。
この記者は、前年の夏に訴えがあったのだろうと考えた。
そうなると、3/6までの「半年以上」何をしていたのか疑問になる。
そこで、慎重に調べたのではないか、と推測する。
つまり、記事の三段落目は、つじつまを合わせるために作られた話なのではないのか。
あるいは、私の見ていない資料の中に、この話を裏付けるような記述があるのかも知れない。
しかし、私は、よほどのことがない限り、私が20年前に引用した資料群の記述を覆せるとは思えない。
だから、私の書いた記事は、ちょっと読みづらいけれど、訂正する気はない。
ウィキペディアの記事を自分でいじる気もないけれど。
まぁ、ネット辞書だろうが、学術論文だろうが、出典を明記しないで書かれている記述は一つ一つ裏を取った方が良い、というのは、当たり前の教訓。
今日の授業では、だいたい以上のような話をした。
あぁそうそう。授業中にもう一つ気づいて話したこと。
「南品川宿の山伏常楽院方に将軍の血筋で源氏天一坊なる人物がいて」という記述も疑問。「天一坊」という表現はあるけれど、基本的には「源氏坊天一」であって、「源氏天一坊」ではない。これも、もとが判らない。
しかし、問題は、実は、どっちが正しいか、ではない。
蓋然性の問題でしかないのだ。
「物語」としての整合性が、「事実」になる。
実録は、成長の過程で、問題発覚から最終決着までの時間をどんどん引き延ばしていく。
それが、彼らにとっての「事実」だったからだ。
歴史は、そう言うところにある。
ちょっと分けあって山東京伝のことをwikiでどう書いてるかチェック。
>浮世絵師・北尾重寅に学び、草双紙(黄表紙)の挿絵画家、北尾政寅としてデビュー。のちに戯作者に転じ、山東京伝と号した。
へぇ、全然知らなかった!!
とおもって、とりあえず、今度はGoogleで「北尾重寅」を検索。
13件しかヒットしない。
wikiがそのまま反映されるサイトと、孫引きのアマチュアブログとか。
他で確認してよ。
しかし、私もこうやってだめ出ししても自分で書き換えようとは思わないモンねぇ。