どんどん溜まっているので、頭出しだけでもしておかないと。
12/20
朝一で遠藤加奈さんの個展『イ・ロ・イ・ロ・ナ・ワ・タ・シ』@パルシェ。
そのブログにあるように、「過去の油絵、墨絵、陶芸、オブジェ、最近の作品などなど」を展示。
入口から自然に進むと壁にそって右に向かって新しい作品から古い作品に遡るように並べてある。中心に陶芸の、杯のようなオブジェ。
それから、あしもとにランプシェイドのような陶器。
遡って、最後にある、早い時期の静物油絵を見ると、逆さまになっている。
一緒に写真を撮って、それと一緒に見ることで過去と現在とを同時に眺められるのだという。
はぁ、インストラクティング・アートですね、と言いながら、それを試さなかった私なのだけれど、たぶん、ここに、“キモ”がある。
それは、20年近い彼女のキャリアの始発(なのかどうか確認してないけど)としてそこにあるけれど、それは、そのまま今の彼女ではない。
あたりまえじゃん。
なんだけども。
続きは後半!!
夕方、SPAC、「ドン・キホーテ」。
メタ物好きだからね。面白かった。
400年前にこのような小説が書かれていること自体驚異としか言いようがないし、それを2時間の戯曲に書き換えたある種の蛮勇には最大限の拍手を送りたい。
書かれた物による知識に惑わされて現実と虚構の区別がつかなくなる人の話、という言い方をすれば、インターネットやゲームの話のように、「今に通じる古典」だねぇ、と言うことになるし、実際、どの時代にもそのような作品は書かれてきた。
問題なのは、その主人公が作品内の登場人物に過ぎないと言うことを自覚させられる--自分のことを書いた本がそこある--にいたって、『マトリックス』的な入れ子構造の中に組み込まれてしまうところが、やっぱりすごい(セルバンテスはそこまで意識したのかどうか判らないけども)。
でさて、「現実」とはなんぞや。
私の位置は3列目ほぼ中央。
ハムレットの時(2列目)もそうだったんだけれど、この、高い天井の舞台上方というのは、前の方の席からは見えにくい。
今回、舞台の上に「額縁」があって、終了間際に奥に同様な額縁のミニチュアが出て、この入れ子構造を説明する役割があったのだけれど、実は一番大きなフレームは、舞台と客席の境界線上にあった。
しかし、一緒に行った人も、隣にいた知らない人も、終演後に私が言うまで気づかなかったらしい(と、えらそうに言うけれど、私もかなり後になって気づいた)。
そのフレームが上の角しかなかったのは、演技の邪魔になるから、ではなく、見える人にだけ見えればいい、と言うことだったのかも知れない。
それとも後ろの人には普通に見えてたのかな。
このフレームは、舞台そのものを「作り話」として我々の向こう側へ追いやる。
当然。ドン・キホーテは架空の人物だ。
しかし、我々観客の人生は確乎とした「実在」なんだろうか。
舞台の上の「現実」たちは、何を生きているのか。
ここで、やっぱり思考は「ロズギル」に戻る。
色々他のことを考えて確認するのを怠ってしまったけれど、客席の入口、あるいは劇場の外に、もう一回り大きな枠があったら面白かったのに。
今回、あぁ、面白いなぁと思ったのは、少ない役者がいくつかの役を掛け持ちしたこと。アフタートークでも、配布物でも3役、とか誰とだれ、とか書かれている。その中には、芝居の中で仮に演じる役は含まれていない。
そこに明らかな「段差」があるのは認めるとしても、さて、役者とは何だ? と言うことを考える時、もっとメタな表出があっても良かったかな、と思ったり。
好物故に色々考えが出てくる。
愉しかった。
ただ、とても魅力的で感心したからこそ、ちょっとだけ苦言。
前に文語文のこととか「侍言葉」ブームのこととか、書いた事があるんだけども、現代人は、私を含め、文語文を書く教育を受けていない。
なので、例えば、過去と完了の助動詞の正確な使い分けが解っていなかったりする。
今回、多分格調高い文語文で表現しなければならなかったはずのいくつかの台詞で、「くずれた」形のいかにも現代人らしい用法が散見したのはとても聞き苦しかった。
近代の戯曲をたくさん読んでないので、「標準」が解らないまま言うのだけれども。
台本読んでみたいな。
終演後宮城さんに、「ハムレット」演出変更について突撃取材。
この件については、別に書きます。
しかし、いいひとだぁ。
夜はスノド2020。
SPACの役者さん(司祭・吟遊詩人役)と演出の意味など少し確認。
あの「声」は、「励まし」だったとか。
即興演奏とライブペイント、どうだったんだろうなぁ。
作品としての善し悪しは好みの問題として、みんなを30分間沈黙させる覚悟がお二人にあったのかは疑問。
作品が完成品としてそこにあることと、その過程を見せることの、作り手側と鑑賞者側との欲望のずれのような物。
少なくとも私にはきつい時間だった。
芝居で疲れていたからか、座った位置が悪かったのか、外部的要因を探せばあるのだろうけれど。
さて、話は遠藤さんに戻る。
『イ・ロ・イ・ロ・ナ・ワ・タ・シ』とは作品として表出された彼女、なのだけれど、自画像「として」あるわけではない。
それは、内面の記憶であったり、何かとの出会いで感じたことであったり、そう言う「作品」たちを並べて、彼女は「ワ・タ・シ」と言った。
作品は自己表出だ。
それはその通り。
しかし、そう明確に意識されないまま生まれた物に「ワ・タ・シ」と名付けることによって突然変わる風景がある。
「作風」の変遷。
材料の変化、技法の変化。
そう言う一切合切が「ワ・タ・シ」になる。
最後に見る、逆さまに飾られた最初の作品の仕掛は、結構深い。
あぁ、いろんなタワシが置いてあったら面白かったなぁ。
Googleで検索すると同姓同名の愉快そうな人の方がたくさんヒットする、と言うことをご本人も御存じで。
これもなんだか仕掛のように見えてしまう。
あぁ、また仕掛の話ばかりで中身に触れていないや。
これが「わたし」。
12/20
朝一で遠藤加奈さんの個展『イ・ロ・イ・ロ・ナ・ワ・タ・シ』@パルシェ。
そのブログにあるように、「過去の油絵、墨絵、陶芸、オブジェ、最近の作品などなど」を展示。
入口から自然に進むと壁にそって右に向かって新しい作品から古い作品に遡るように並べてある。中心に陶芸の、杯のようなオブジェ。
それから、あしもとにランプシェイドのような陶器。
遡って、最後にある、早い時期の静物油絵を見ると、逆さまになっている。
一緒に写真を撮って、それと一緒に見ることで過去と現在とを同時に眺められるのだという。
はぁ、インストラクティング・アートですね、と言いながら、それを試さなかった私なのだけれど、たぶん、ここに、“キモ”がある。
それは、20年近い彼女のキャリアの始発(なのかどうか確認してないけど)としてそこにあるけれど、それは、そのまま今の彼女ではない。
あたりまえじゃん。
なんだけども。
続きは後半!!
夕方、SPAC、「ドン・キホーテ」。
メタ物好きだからね。面白かった。
400年前にこのような小説が書かれていること自体驚異としか言いようがないし、それを2時間の戯曲に書き換えたある種の蛮勇には最大限の拍手を送りたい。
書かれた物による知識に惑わされて現実と虚構の区別がつかなくなる人の話、という言い方をすれば、インターネットやゲームの話のように、「今に通じる古典」だねぇ、と言うことになるし、実際、どの時代にもそのような作品は書かれてきた。
問題なのは、その主人公が作品内の登場人物に過ぎないと言うことを自覚させられる--自分のことを書いた本がそこある--にいたって、『マトリックス』的な入れ子構造の中に組み込まれてしまうところが、やっぱりすごい(セルバンテスはそこまで意識したのかどうか判らないけども)。
でさて、「現実」とはなんぞや。
私の位置は3列目ほぼ中央。
ハムレットの時(2列目)もそうだったんだけれど、この、高い天井の舞台上方というのは、前の方の席からは見えにくい。
今回、舞台の上に「額縁」があって、終了間際に奥に同様な額縁のミニチュアが出て、この入れ子構造を説明する役割があったのだけれど、実は一番大きなフレームは、舞台と客席の境界線上にあった。
しかし、一緒に行った人も、隣にいた知らない人も、終演後に私が言うまで気づかなかったらしい(と、えらそうに言うけれど、私もかなり後になって気づいた)。
そのフレームが上の角しかなかったのは、演技の邪魔になるから、ではなく、見える人にだけ見えればいい、と言うことだったのかも知れない。
それとも後ろの人には普通に見えてたのかな。
このフレームは、舞台そのものを「作り話」として我々の向こう側へ追いやる。
当然。ドン・キホーテは架空の人物だ。
しかし、我々観客の人生は確乎とした「実在」なんだろうか。
舞台の上の「現実」たちは、何を生きているのか。
ここで、やっぱり思考は「ロズギル」に戻る。
色々他のことを考えて確認するのを怠ってしまったけれど、客席の入口、あるいは劇場の外に、もう一回り大きな枠があったら面白かったのに。
今回、あぁ、面白いなぁと思ったのは、少ない役者がいくつかの役を掛け持ちしたこと。アフタートークでも、配布物でも3役、とか誰とだれ、とか書かれている。その中には、芝居の中で仮に演じる役は含まれていない。
そこに明らかな「段差」があるのは認めるとしても、さて、役者とは何だ? と言うことを考える時、もっとメタな表出があっても良かったかな、と思ったり。
好物故に色々考えが出てくる。
愉しかった。
ただ、とても魅力的で感心したからこそ、ちょっとだけ苦言。
前に文語文のこととか「侍言葉」ブームのこととか、書いた事があるんだけども、現代人は、私を含め、文語文を書く教育を受けていない。
なので、例えば、過去と完了の助動詞の正確な使い分けが解っていなかったりする。
今回、多分格調高い文語文で表現しなければならなかったはずのいくつかの台詞で、「くずれた」形のいかにも現代人らしい用法が散見したのはとても聞き苦しかった。
近代の戯曲をたくさん読んでないので、「標準」が解らないまま言うのだけれども。
台本読んでみたいな。
終演後宮城さんに、「ハムレット」演出変更について突撃取材。
この件については、別に書きます。
しかし、いいひとだぁ。
夜はスノド2020。
SPACの役者さん(司祭・吟遊詩人役)と演出の意味など少し確認。
あの「声」は、「励まし」だったとか。
即興演奏とライブペイント、どうだったんだろうなぁ。
作品としての善し悪しは好みの問題として、みんなを30分間沈黙させる覚悟がお二人にあったのかは疑問。
作品が完成品としてそこにあることと、その過程を見せることの、作り手側と鑑賞者側との欲望のずれのような物。
少なくとも私にはきつい時間だった。
芝居で疲れていたからか、座った位置が悪かったのか、外部的要因を探せばあるのだろうけれど。
さて、話は遠藤さんに戻る。
『イ・ロ・イ・ロ・ナ・ワ・タ・シ』とは作品として表出された彼女、なのだけれど、自画像「として」あるわけではない。
それは、内面の記憶であったり、何かとの出会いで感じたことであったり、そう言う「作品」たちを並べて、彼女は「ワ・タ・シ」と言った。
作品は自己表出だ。
それはその通り。
しかし、そう明確に意識されないまま生まれた物に「ワ・タ・シ」と名付けることによって突然変わる風景がある。
「作風」の変遷。
材料の変化、技法の変化。
そう言う一切合切が「ワ・タ・シ」になる。
最後に見る、逆さまに飾られた最初の作品の仕掛は、結構深い。
あぁ、いろんなタワシが置いてあったら面白かったなぁ。
Googleで検索すると同姓同名の愉快そうな人の方がたくさんヒットする、と言うことをご本人も御存じで。
これもなんだか仕掛のように見えてしまう。
あぁ、また仕掛の話ばかりで中身に触れていないや。
これが「わたし」。
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