凄い時代だと感じることが多いですが・・・・
ストリートビューもすごいですよね
居ながらにして世界中のあそこ!って特定した住所見れちゃうんですものね~
今日は
小学校中学校合同の同窓会のご案内を頂いて・・・・
私が小学校1年生の時に
母が離婚して私を連れて婚家を出た
私が未だ小学1年生なので
母は仕事しますので
祖父母の所で小学校時代を過ごした
そこは祖母の実家の有るところで
田舎でも祖母の兄弟はみんな教育を受けていて
祖母には東京に住んでいた文学者の姉もいた
田舎のお嬢さんで
祖父は何代目かの商売人の家に生まれ
子供の頃から祖父付きの使用人が何人もいたと言うような育ちで
生涯働いたことが無く
母が生まれた時の家は市内の中心地で部屋が60も有るような家だったそうです
その後
蔵が何番蔵と言っていたか定かではありませんが
4番蔵5番蔵と言うように沢山あったらしく
敷地にトロッコの線路を岡山では初めて敷いて荷揚げして
使用人たちの仕事が無くなって騒動になったとか
まあこういった話も
母が亡くなって聞いたことが多くて
母からは
街で昔の使用人の人と偶然出くわして
お嬢さんが・・・・と泣かれたと言っていた母の記憶しかないですが
時代系列も良く分かっていませんが
とにかく店をつぶしたのは祖父だと言われているのですが
店を一番番頭に任せていたのが
相場で大損して店をつぶしたらしいです
そこで祖母の里に隠居したと言う事らしくて
私の小学生時代も
祖母はいつも着物を着て箏の先生をしてました
母も箏の先生とお花の先生で私を大きくしてくれました~
ものすごく頑張り屋の
よく遊び良く働いた明るい母でした
そんな田舎の小学校時代
もう人生で一番戻りたくない時期
それはどうしてかと言うと
家から小学校まで2キロはあるかもッとかも
それを歩いて学校まで行っていたのが
本当に辛かった~~
学区の端っこに位置してたので
隣の町の小学校の方が凄く近かった
歩くの苦手なヒョロヒョロの子だったので
体力も無く
大汗かいてランドセル背負って・・・
もう今考えただけでも
人生で一番いやだった歩いての通学
学校生活や
田舎暮らしは問題ないのですが
その歩きの辛さは骨身にこたえて今でもゾッとします
そんな魔の通学路を
ストリートビューで見てみると
当時の面影がのこる景色があちこちに見られて
もう60年以上前になる事なのかと・・・・
同窓会も岡山に帰った頃に一度だけ行った事がある
仲良ししてた友達は皆里には住んでいないようで
外に出ているのでしょうね話し込むような方は居なかったです
当時も町から来た子って言う感じだったのではないのかと
転校生だったから
小学校時代は二度と戻りたくない時期
学校や友達じゃなく
通学が苦痛だった
寒い 雨 暑い 重い
子供にとっては苦痛でしかなかった
とにかく徒歩での通学が悪夢だった
中学からは母と街中でマンモス中学に入学した
たとえ認知症になって昔の事が懐かしく
帰りたいと言うとしても
絶対小学生時代じゃ無いのは自信あります
横浜に帰りたいと言うのじゃないかな
終の棲家と思っていたもの
横浜元町のマンション
きっとそこに帰ると言うと思う・・・・
サンドの中から出てきた
取り出し忘れしていた昨年末埋めた花
冬のバラ
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます