「老師よ、私はAさんに紹介されてきました『高校生の迷える羊』です。どうかいろいろ教えてください」
「ほう、きみかねAが言っていたのは。なかなか利発そうで、所謂、チャライ兄ちゃんではないな。では何かな?わしで話せることは話そう。何が相談事なのかな」
「えーとその、つまり、すべてなんです。何から何まで・・・不安なのです。うまくいえないのですが」
「良くあるパターンかな。それでは、絞ってみよう。それがまたすべての問題と関連しておるから。まず入口を一つ決めよう。人は同時に二つ以上のことは話せない。進路のことはどうじゃな?」
「ええ、それじゃーそれにします。進路の問題ですね。えーと僕は一応大学進学を考えています。数学が苦手ですので文科系の学部をかんがえていますが。将来何になるかは考えてもよくわからないのです。自分の適性とか、職場で生きがいを持ってやるとか、自分は本当にお金を稼いで生活できるのとか・・・」
「まあ、一度にいろいろ考えてみることはできないのじゃ。問題はまず、今君が望むことはなんなのか?」
「それがわからないのですよ!」
「ふーむ。なるほど。それでは、すこし話は変わるかもしれないが、今、君は食事をしたいと思うかな?そろそろ夕方になるが?夕食時間が近いから」
「はあー、なんですか?まるでわけのわからないことをいいますね。進路の問題と食欲が関係があるのですか?」
「大いにある。働かざる者食うべからず、というように、進路は当然、働くこと即ち労働の問題が含まれておる。労働は食う事と関係するじゃろう。まず君が何を食べたいかだ」
「はーあ、そうですか。僕はハンバーグ定食が食べたいですね。家の料理はいつも簡単なものなのでレストランのハンバーグ定食が大好きですよ。あと、チキンナゲットのセットメニュウーもいいですね、それから。・・・」
「もういいだろう。そうすると君は食事がレストランのように外食したいことを心の中で望んでいることになる。つまり、かなり、収入が必要であることを意味する。なぜなら、外食することになればよりランクの上のレストランの食事を求めることになる可能性は高い。レストランの値段は店によってはかなりのものになろう。つまり少なくとも君の願いは中産階級以上の収入を目指していることになる。」
「はー、そうなんですか。でも、たしかに収入が高いのはいいですがそれが自分の生きがいとか、意味あるものとかにつながるものでしょうか、なにか貧しい発想のように思えてならないのですが。少年よ大志を抱け、とかいいますよね。世の中、愛が大切だとか」
「格好をつけてはいかん。高校生よ、どうしても理想的というか活字的というか観念的というか、イメージ的というか。理想をもつのは良いが、君の今頭に描いているものはまさに混とんである事を君も認めておる。だから何が不安であるかわからないと言っているわけだ、まあ、つまり、それは整理されていない。なぜ整理されないのか。方法を教えてもらっていない。むしろ社会的に観念的な理想主義を植え付けられているやもしれぬし、自分の勝手な想像に酔いしれているのかもしれない。理想的な発言、社会のためとか、国のためとかみんなのためとか、意味ある人生とか、そう発言している人間が、実は最もそれらから遠い人間であることもあろう。特に日本は本音と建前がはっきり分かれていて、むしろ公然とそれを実践しておる者もいる。自分の地位を利用して。」
「そんなこと初めて聞いた。本音と建前が離れているって本当なんですね。」
「そう言うことなど、親と人付き合いについて、社会について、つまり、君の年格好に理解できる社会観や世界観、人生観について話さないのかね?」
「小さい時は、なにか、嘘をついてはいけないとか、そんなことは聞いたけど、ほとんど疲れて帰ってくる親父とは話さないし、母親とはそんな話題はないなー」
「やはり。つまり、日本では社会における効率的なスキル、そしてそれを支える人生観世界観を考え、教える、教わる、自ら考え、行動することが乏しい。日常的な、適応的なソーシャルスキルはなんとか試行錯誤や仲間内との教え合いで何とかなろうが、それはより世間を自分で作っていくスキルの習得は、日常自然な付き合いだけでは出来難い。」
「そんなうまいテクニックがあるんですか?」
「確実ではないが、その人の状況と熟達によって自ら世の中を作っていくスキルやテクニックを利用することができる。これは部分的理論的に心理学者たちは発見しておるし、処世術にたけた人はいくつかの場面においてこのことを意識的にも無意識的にも使用して自分の対人処理に利用しているといえよう。人との関係を良くする一つの方法に、人の話を相槌を打ってよく聞く、肯定する、繰り返すなどは、カウンセリングのスキルにあるが、心理学を学んだことのない世なれた人も使う。もちろん彼らはカウンセリングとは違った目的のためにこのテクニックつかうのだが。
こう言ったスキルは学校では教えてくれない。教える必要を行政の側は認めていないかのようだ。教育目標とかを学校なり、教育委員会なりが掲げるが、いったいその根拠は何なのか?それを理論的にどう解説するのかは表明しない。というのは、教育というのも、人々を一つに文化の枠組みに閉じ込めるものと思いこんでおるからじゃ。その文化の必然性を証明することはできない。それはやはり根本において歴史的に強制されてきたものだからである。つまり、この種のテクニックは強制する教育する側にとっての武器であるから教育される側に公開されないということだ。
幸い、この処世術や対人関係スキルについては本も出ておる、心理学を学ぶこともできる。問題は現実に使い得るようになるために、応用とエクササイズをどのようにするかということだろう。これを身につければ、最もそれは常に発展させ、幅を広げねばならないが
この世で、いたずらに不安や恐れに時間を空費することもなく次の対処行動に移ることもできるし、場合によっては他人を操ることもできよう。君が何を望むにせよ、それは、従って強制されて形成されてきた文化の枠組みのなかの整理せれたものか混乱したものに君の欲望が多少混ざったものにすぎない。自己の自由選択が現代では可能のように言われても、突き詰めれば、その選択の大半はすでに制限されている。それを自覚して自己の欲望をみつめることだ。繰り返すようだが、その欲望にさえ、文化や成育歴、君自身の生活世界の影響が大きく影響していることを認めねばならぬ。これは本当に自分が望んでいるのか?と問うことが不断に求められる。しかし同時に、君は決断しなければならない。よく分析して決断したまえ。実践し給え。そして評価して、再検討し給え、進路変更が必要なこともあるじゃろうて。」
「何か、・・・一度にいわれても?まず対人スキルを身につけて、そして自分の欲望を正確に把握する。その欲望は他人の影響もあるということですか。文化や育ってきた環境とかの影響もある。不安は自分が世間を作っていくような気もちで対人スキルを駆使して生活すれば、なくならないまでも抑えられ、欲望実現のための実践ができる。何か非常に、ドライで計算高い感じ。もっと価値あるものが人生には存在しないのでしょうか?」
「もちろんある。だが、それを知り現実化するのはこの世の実態につぶされないで、これをじっくり見ることができて、世の中を自分で作っていく意気込みで生活しなければ、現実を超える価値や意味をことばの上や他人の影響でいくら考えても、迷うか、他人に利用されるだけであるのじゃ。たしかに、この世を超える観念は存在する。そうでなければ、『進化』という現象は起こりえない。このことの内容はまたの機会に話そう。
つまり、ここで注意しなければならないのは超越的な観念を利用しようとする輩もいっぱいおるということじゃ。これは日本の歴史を見れば明らかなことだ。人間性尊重と理性をあわせもって歴史をみれば明らかなことだ。
今日はここまでとしよう。今日の話をまたじっくり思い出して考えてきなされ。」
「ほう、きみかねAが言っていたのは。なかなか利発そうで、所謂、チャライ兄ちゃんではないな。では何かな?わしで話せることは話そう。何が相談事なのかな」
「えーとその、つまり、すべてなんです。何から何まで・・・不安なのです。うまくいえないのですが」
「良くあるパターンかな。それでは、絞ってみよう。それがまたすべての問題と関連しておるから。まず入口を一つ決めよう。人は同時に二つ以上のことは話せない。進路のことはどうじゃな?」
「ええ、それじゃーそれにします。進路の問題ですね。えーと僕は一応大学進学を考えています。数学が苦手ですので文科系の学部をかんがえていますが。将来何になるかは考えてもよくわからないのです。自分の適性とか、職場で生きがいを持ってやるとか、自分は本当にお金を稼いで生活できるのとか・・・」
「まあ、一度にいろいろ考えてみることはできないのじゃ。問題はまず、今君が望むことはなんなのか?」
「それがわからないのですよ!」
「ふーむ。なるほど。それでは、すこし話は変わるかもしれないが、今、君は食事をしたいと思うかな?そろそろ夕方になるが?夕食時間が近いから」
「はあー、なんですか?まるでわけのわからないことをいいますね。進路の問題と食欲が関係があるのですか?」
「大いにある。働かざる者食うべからず、というように、進路は当然、働くこと即ち労働の問題が含まれておる。労働は食う事と関係するじゃろう。まず君が何を食べたいかだ」
「はーあ、そうですか。僕はハンバーグ定食が食べたいですね。家の料理はいつも簡単なものなのでレストランのハンバーグ定食が大好きですよ。あと、チキンナゲットのセットメニュウーもいいですね、それから。・・・」
「もういいだろう。そうすると君は食事がレストランのように外食したいことを心の中で望んでいることになる。つまり、かなり、収入が必要であることを意味する。なぜなら、外食することになればよりランクの上のレストランの食事を求めることになる可能性は高い。レストランの値段は店によってはかなりのものになろう。つまり少なくとも君の願いは中産階級以上の収入を目指していることになる。」
「はー、そうなんですか。でも、たしかに収入が高いのはいいですがそれが自分の生きがいとか、意味あるものとかにつながるものでしょうか、なにか貧しい発想のように思えてならないのですが。少年よ大志を抱け、とかいいますよね。世の中、愛が大切だとか」
「格好をつけてはいかん。高校生よ、どうしても理想的というか活字的というか観念的というか、イメージ的というか。理想をもつのは良いが、君の今頭に描いているものはまさに混とんである事を君も認めておる。だから何が不安であるかわからないと言っているわけだ、まあ、つまり、それは整理されていない。なぜ整理されないのか。方法を教えてもらっていない。むしろ社会的に観念的な理想主義を植え付けられているやもしれぬし、自分の勝手な想像に酔いしれているのかもしれない。理想的な発言、社会のためとか、国のためとかみんなのためとか、意味ある人生とか、そう発言している人間が、実は最もそれらから遠い人間であることもあろう。特に日本は本音と建前がはっきり分かれていて、むしろ公然とそれを実践しておる者もいる。自分の地位を利用して。」
「そんなこと初めて聞いた。本音と建前が離れているって本当なんですね。」
「そう言うことなど、親と人付き合いについて、社会について、つまり、君の年格好に理解できる社会観や世界観、人生観について話さないのかね?」
「小さい時は、なにか、嘘をついてはいけないとか、そんなことは聞いたけど、ほとんど疲れて帰ってくる親父とは話さないし、母親とはそんな話題はないなー」
「やはり。つまり、日本では社会における効率的なスキル、そしてそれを支える人生観世界観を考え、教える、教わる、自ら考え、行動することが乏しい。日常的な、適応的なソーシャルスキルはなんとか試行錯誤や仲間内との教え合いで何とかなろうが、それはより世間を自分で作っていくスキルの習得は、日常自然な付き合いだけでは出来難い。」
「そんなうまいテクニックがあるんですか?」
「確実ではないが、その人の状況と熟達によって自ら世の中を作っていくスキルやテクニックを利用することができる。これは部分的理論的に心理学者たちは発見しておるし、処世術にたけた人はいくつかの場面においてこのことを意識的にも無意識的にも使用して自分の対人処理に利用しているといえよう。人との関係を良くする一つの方法に、人の話を相槌を打ってよく聞く、肯定する、繰り返すなどは、カウンセリングのスキルにあるが、心理学を学んだことのない世なれた人も使う。もちろん彼らはカウンセリングとは違った目的のためにこのテクニックつかうのだが。
こう言ったスキルは学校では教えてくれない。教える必要を行政の側は認めていないかのようだ。教育目標とかを学校なり、教育委員会なりが掲げるが、いったいその根拠は何なのか?それを理論的にどう解説するのかは表明しない。というのは、教育というのも、人々を一つに文化の枠組みに閉じ込めるものと思いこんでおるからじゃ。その文化の必然性を証明することはできない。それはやはり根本において歴史的に強制されてきたものだからである。つまり、この種のテクニックは強制する教育する側にとっての武器であるから教育される側に公開されないということだ。
幸い、この処世術や対人関係スキルについては本も出ておる、心理学を学ぶこともできる。問題は現実に使い得るようになるために、応用とエクササイズをどのようにするかということだろう。これを身につければ、最もそれは常に発展させ、幅を広げねばならないが
この世で、いたずらに不安や恐れに時間を空費することもなく次の対処行動に移ることもできるし、場合によっては他人を操ることもできよう。君が何を望むにせよ、それは、従って強制されて形成されてきた文化の枠組みのなかの整理せれたものか混乱したものに君の欲望が多少混ざったものにすぎない。自己の自由選択が現代では可能のように言われても、突き詰めれば、その選択の大半はすでに制限されている。それを自覚して自己の欲望をみつめることだ。繰り返すようだが、その欲望にさえ、文化や成育歴、君自身の生活世界の影響が大きく影響していることを認めねばならぬ。これは本当に自分が望んでいるのか?と問うことが不断に求められる。しかし同時に、君は決断しなければならない。よく分析して決断したまえ。実践し給え。そして評価して、再検討し給え、進路変更が必要なこともあるじゃろうて。」
「何か、・・・一度にいわれても?まず対人スキルを身につけて、そして自分の欲望を正確に把握する。その欲望は他人の影響もあるということですか。文化や育ってきた環境とかの影響もある。不安は自分が世間を作っていくような気もちで対人スキルを駆使して生活すれば、なくならないまでも抑えられ、欲望実現のための実践ができる。何か非常に、ドライで計算高い感じ。もっと価値あるものが人生には存在しないのでしょうか?」
「もちろんある。だが、それを知り現実化するのはこの世の実態につぶされないで、これをじっくり見ることができて、世の中を自分で作っていく意気込みで生活しなければ、現実を超える価値や意味をことばの上や他人の影響でいくら考えても、迷うか、他人に利用されるだけであるのじゃ。たしかに、この世を超える観念は存在する。そうでなければ、『進化』という現象は起こりえない。このことの内容はまたの機会に話そう。
つまり、ここで注意しなければならないのは超越的な観念を利用しようとする輩もいっぱいおるということじゃ。これは日本の歴史を見れば明らかなことだ。人間性尊重と理性をあわせもって歴史をみれば明らかなことだ。
今日はここまでとしよう。今日の話をまたじっくり思い出して考えてきなされ。」