●サッカーW杯と日本人の愛国心
「迷える子羊、今日は又何か聞きに来たのかな?目が充血してねむたそうであるな」
「ええ、老師。サッカーのワールドカップ中継を見すぎたようで、でも興奮しますよね。日本は頑張っていますし、世界の高レベルのプレーは見ていても気持ちがいいですね。」
「ほう、楽しんでおるようじゃな。しかしワシはサッカーについては全然詳しくないぞ。何を聞きたいのじゃ」
「いえ、そのー、テレビのサッカーの試合そのものじゃないんです。つまり、自分の国を応援している各国の応援風景と、日本の応援風景に違和感を感じたんです。」
「ほうー、どんな感じで、どこがどう違うのじゃ?」
「えーと特に西ヨーロッパのサポーターや韓国でもそうなんですが、サポーターというか国民が野外で大勢集まって、テレビ中継をスクリーンなどで見ているんですけど、そして、自分の国が勝ったり負けたりするとそこですごくはっきりと表現してるんです。日本はスタジアムの中とかスポーツバーとかで応援してるけど、多くの大衆が野外に集まることはないですね。日本が勝っても、狭い場所で、騒いでいる。警察官に囲まれてなんか去勢されているみたい。他の国は大衆がすごく盛り上がるのに。なんで、日本では多くのひとが野外で応援することが出来ないのでしょう?」
「そうじゃな。日ごろ愛国心、愛国心と唱えておる連中も、この機会をとらえて大衆に愛国心を鼓舞する絶好の機会なのに、野外での集会や応援を企画もしておらんようじゃな」
「なぜでしょね?」
「まあ、一つには、野外での大衆運動を警察や政治家や官僚はきらっておるのじゃろう。交通の妨げになるとか、公園の占有はいかんとか、愛国主義を標榜する団体とか行政が管理するところでの愛国心しか認めないということだろう。街の作りも、西欧では市庁舎の前には公的な広場というものが大体作られておる。ここで様々な行事が行われるが、これは、古代ギリシャ人が集って民主制作り政治を論じたアゴラの名残であろう。日本の街にはこれがない。支配者の主催によらないで大衆を集めることは支配者にとって厭うべきことじゃろうて。最近の例で言うなら、ルーマニアの社会主義政権がたおされたきっかけは広場に集まった大衆が独裁者に罵声を浴びたところから始まっておったのう。単なる暴動になる危険性もあるが、大衆が自主的に自立した関係を結び、政治運動になることを最も政治家や官僚は恐れているからじゃ。西欧でも同じだが、西欧は革命を経験しておるから、革命がおこっても人々はそれの収拾策や再建の仕方も分かっておるのでそれほど屋外での大衆行動を制約する必要を感じないが、今の日本の官僚や政治家、資本家にとってはその状態は、無政府状態の暗黒社会、絶対あってはならない状態なのじゃ。実際は彼らの支配がなくなるだけの話でしかないのじゃが。だから、大衆を集めるにしても屋内で。屋外で多くの人を集める場合は商売がらみのものに限ることじゃ。選挙の時でも大衆が選挙カーの前に集まるのはあくまでも歩道の中だけである。こうすれば政治的運動になることはない。なにか起こっても武力鎮圧するだけの理由ができるじゃろ。話を戻せば、日本の愛国心はあくまでも官製のもでなくてはならぬ、それを自然の発露の感情として官僚や政治家やその茶坊主のような連中が言うのは、手前勝手な説得力無いものじゃ。頭が熱い。オーバーヒートじゃな。」
「なかなか、老師の見方はいつもユニークで、目を洗われる思いです。・・・考えてみますです。」
「迷える子羊、今日は又何か聞きに来たのかな?目が充血してねむたそうであるな」
「ええ、老師。サッカーのワールドカップ中継を見すぎたようで、でも興奮しますよね。日本は頑張っていますし、世界の高レベルのプレーは見ていても気持ちがいいですね。」
「ほう、楽しんでおるようじゃな。しかしワシはサッカーについては全然詳しくないぞ。何を聞きたいのじゃ」
「いえ、そのー、テレビのサッカーの試合そのものじゃないんです。つまり、自分の国を応援している各国の応援風景と、日本の応援風景に違和感を感じたんです。」
「ほうー、どんな感じで、どこがどう違うのじゃ?」
「えーと特に西ヨーロッパのサポーターや韓国でもそうなんですが、サポーターというか国民が野外で大勢集まって、テレビ中継をスクリーンなどで見ているんですけど、そして、自分の国が勝ったり負けたりするとそこですごくはっきりと表現してるんです。日本はスタジアムの中とかスポーツバーとかで応援してるけど、多くの大衆が野外に集まることはないですね。日本が勝っても、狭い場所で、騒いでいる。警察官に囲まれてなんか去勢されているみたい。他の国は大衆がすごく盛り上がるのに。なんで、日本では多くのひとが野外で応援することが出来ないのでしょう?」
「そうじゃな。日ごろ愛国心、愛国心と唱えておる連中も、この機会をとらえて大衆に愛国心を鼓舞する絶好の機会なのに、野外での集会や応援を企画もしておらんようじゃな」
「なぜでしょね?」
「まあ、一つには、野外での大衆運動を警察や政治家や官僚はきらっておるのじゃろう。交通の妨げになるとか、公園の占有はいかんとか、愛国主義を標榜する団体とか行政が管理するところでの愛国心しか認めないということだろう。街の作りも、西欧では市庁舎の前には公的な広場というものが大体作られておる。ここで様々な行事が行われるが、これは、古代ギリシャ人が集って民主制作り政治を論じたアゴラの名残であろう。日本の街にはこれがない。支配者の主催によらないで大衆を集めることは支配者にとって厭うべきことじゃろうて。最近の例で言うなら、ルーマニアの社会主義政権がたおされたきっかけは広場に集まった大衆が独裁者に罵声を浴びたところから始まっておったのう。単なる暴動になる危険性もあるが、大衆が自主的に自立した関係を結び、政治運動になることを最も政治家や官僚は恐れているからじゃ。西欧でも同じだが、西欧は革命を経験しておるから、革命がおこっても人々はそれの収拾策や再建の仕方も分かっておるのでそれほど屋外での大衆行動を制約する必要を感じないが、今の日本の官僚や政治家、資本家にとってはその状態は、無政府状態の暗黒社会、絶対あってはならない状態なのじゃ。実際は彼らの支配がなくなるだけの話でしかないのじゃが。だから、大衆を集めるにしても屋内で。屋外で多くの人を集める場合は商売がらみのものに限ることじゃ。選挙の時でも大衆が選挙カーの前に集まるのはあくまでも歩道の中だけである。こうすれば政治的運動になることはない。なにか起こっても武力鎮圧するだけの理由ができるじゃろ。話を戻せば、日本の愛国心はあくまでも官製のもでなくてはならぬ、それを自然の発露の感情として官僚や政治家やその茶坊主のような連中が言うのは、手前勝手な説得力無いものじゃ。頭が熱い。オーバーヒートじゃな。」
「なかなか、老師の見方はいつもユニークで、目を洗われる思いです。・・・考えてみますです。」