田園 里山 野鳥そしてアルプスの山々

日進市と近隣の里山、春から秋にはアルプスの山々を歩いて感じたこと、考えたことなど・・・

松代 - 古戦場、真田家、象山地下壕

2012年03月04日 | 旅行

富山への途上、少しまわり道をして、長野駅からバスで松代を訪れました。

川中島古戦場に近く、長野電鉄の駅のすぐ裏に松代城(写真下)があります。

武田信玄によって築城された海津城がその前身と言われています。江戸期になって上田から移封された真田家がここを居城とし、18世紀の初めに松代城と改められ、明治初頭まで続いたとのことです。

川中島の合戦は全部で5回にわたるそうですが、最も有名なのは4回目の戦い(1561年)。山本勘助の啄木鳥の戦法の裏を搔いた謙信が八幡原の信玄本陣に迫り、激戦のうちに勘助らが戦死したと伝えられる戦いです。

真田藩の文武学校や真田邸など、古い建物が並び、趣ある街並みが続きます。

上の写真は何と松代小学校の塀。こんな学校で学ぶ小学生はきっと情操豊かな子供として成長することでしょう。道路を挟んで向かいが真田邸です。

真田邸の内部や庭にも興味深いところがたくさんありました。土蔵がいくつかあり、そのひとつでボランティアの人たちが紙切り、木綿の古布を使った草履編みの体験指導をしていました。ふと気がついて、「妻女山はここから見えますか?」と訊ねると、「ここからは見えないけれど、あの山の裾のほうだ」と教えてくれました。

 

駅の近くからその方向を見たのが上の写真です。右下の矢印のあたり、さらに低いところの台地が妻女山のようです。ただ、謙信が本当にここに陣を敷いたかどうかについては異説があるようです。

妻女山―海津城は 2.4 km、妻女山―八幡原が 2.7 km、海津城―八幡原は 3.5 km 。 この領域で両軍合わせて3万を超える軍勢が戦ったことだけは間違いがないことでしょう。

         

町のはずれに「象山」という山があり、そこに太平洋戦争末期に天皇と大本営を移し本土決戦を企図した名残の象山地下壕(写真上)があります。見学が許される部分だけでも入り口から往復1km。総延長は10 km以上という規模です。

昨年友人の案内で訪れた陸軍登戸研究所(風船爆弾の開発などで知られる)も、最終時期には松代への移転が検討されていたと聞きました。

この町は、幕末に活躍した佐久間象山が生まれ、活躍した町としても有名。今回は時間がなく、象山記念館訪問は次回にとっておくことにしました。

中世、近代、現代と、さまざまな歴史に綴られた松代の地は、町を囲む山々の自然とともに、多くの魅力にあふれた地、という感慨を持ちながら富山へ向かいました。

    

 


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