http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20101207-00000045-maip-soci
「政治家、どうせ仕事していないんだから、せめておもしろい失言をしてくれ」と言ったのは、福田恆存だったろうか。
その意味では、われらが石原慎太郎都知事は、まさに天成のエンターテイナーだ。
7日、石原都知事は同性愛者について「どこかやっぱり足りない感じがする。遺伝とかのせいでしょう。マイノリティーで気の毒ですよ」と発言したそうだ。3日には、PTA団体から性的な漫画の規制強化を陳情された際、「テレビなんかでも同性愛者の連中が出てきて平気でやるでしょ。日本は野放図になり過ぎている」と述べていたが、この真意を確認した記者の質問への答え。
どこかやっぱり余計なお世話な感じがする。電波とかのせいでしょう。石原慎太郎でお気の毒ですよ。テレビなんかでも、レイプ小説作家が出てきて平気でやるでしょ。日本は石原プロすぎますよ。
しかしどうして、同性愛者たちが「足りない」のか。仮に「足りない」としても、そのどこが悪いというのだろう? 「足りない」ことこそ、芸術やら愛やら何やらの起源ではないのか。プラトンを持ち出すまでもなく、エロスとは、美しいものに憧れる衝動、自分より高みにあるもの、自分に欠けるものを求めてやまない衝動である。
(何かが足りないのは何かが有り余っているからでもある。たとえば、私にインシュリンが足りないのは、糖分がたっぷりだからだ)
私は石原慎太郎さんが、そう嫌いなタイプではない。「太陽の塔」の名の由来は、「太陽の季節」だった。名付け親は大阪万博テーマ館サブプロデューサーの小松左京。パビリオンの大屋根から塔の上半分が突き出す形から、ペニスで障子を破る場面を連想したのだそうだ。岡本太郎さんはこのアイデアをおもしろがった。
この点、いま話題らしい猪瀬直樹副都知事のつぶやきは、おもしろみに欠ける。「最近の若者は」という居酒屋の親父のお説教レベルである。
「マンガの関係が好きな人のなかには人生が行き止まりと感じている人が多いという印象を受けます。生きている女を口説きなさない。瞬間、瞬間、言うことが予想外に変わるから、そのほうがおもしろくて未知で愛おしいよ。」
2010-12-07 01:15:50 via web
この発言こそ、たかが副都知事くらいで舞い上がった「人生行き止まり」オヤジの典型例だろう。「マンガの関係」はだめだが、「小説や映画・ドラマの関係」ならいいというのか。また、女性のマンガファンには、「生きている男に口説かれたほうがいい」とでもいうのだろうか。私が女性ならこんな男はNOだ。
「男」であること以外に取り柄のない、マッチョの誇示こそ、本当は自覚せざる同性愛的な志向が潜んでいるように思う。石原さんタイプの肉体系潜在ホモセクシャルほど、始末の悪いものはない。
男性が女性の集団レイプに走るのは、潜在的な同性愛志向だと何かで読んだことがある。女性の肉体をシェアすることを通じて、お互いまぐわっているのだ。「男は女しか愛してはならない」という固定観念が女性を犠牲にする。スポーツジムの男たちのように、肉体美を讃美しながらご同輩だけでご自由に愛し合えばよいのだ。
戦国時代や江戸時代までは、同性愛はごくありふれたものだった。「好色一代男」の世之介が一生のうちに交わった人数は、「たはふれし女三千七百四十二人。小人(少年)のもてあそび七百二十五人」だった。当時は男色(衆道)が庶民の間でも一般的だった。
男なら誰でも20%くらいはゲイ成分があるといっていいかもしれない。スイッチが入るか入らないかの違いだけである。何が〈正常〉で〈異常〉かは歴史的文化的に形成されるもので、決して絶対不変のものではない。今は、石原さんや猪瀬さんの信じるような、近代以降のセクシュアリティやジェンダーの枠組みが崩れている。
ただ、同性愛者のテレビ出演に関して、「それをことさら売り物にし、ショーアップして、テレビのどうのこうのにするってのは、外国じゃ例がないね」という石原さんの意見には、半分くらいは賛成だ。ゲイやレズビアン、トランスジェンダーの多くは、ごく普通に暮らしている。このことを忘れてはならないと思う。ゲイのカップルの日常を描いた、よしながふみ『きのう何食べた?』などは、この社会の成熟のあかしである。
しかし今度の東京都の規制案については、表現狩りは人間狩りよりもっと悪質な犯罪行為だと、あらためて反対を表明しておきたい。PTAのお立場から、規制派への疑問を提起した良エントリに、無断リンクさせていただく。
空の森:東京都青少年健全育成条例。推進派への疑問
http://ironyt.exblog.jp/15523806/