以前もこのブログで触れたカレンダーの仕事が、今年も無事受注できた。19年目になる。ご担当も出世されて、今や取締役で営業本部長。私はヒラのままである。
毎年のテーマ決めには苦しんできたのだが、2020年版から、来年のテーマも決めることにした。これは2020年版を作った2019年夏が、脳梗塞で復帰直後だったことが大きい。このご時世で、来年も無事受注できる保証はない。しかし気持ちの上で、来年まで生き延びてまた仕事するつもりで準備しておきたいと思った。
伝統色を紹介するこのカレンダーだが、今年は、ある月に鶯茶を選んだ。
しかし「濃すぎる」というお客さんの意見で、「鶸茶」(ひわちゃ)に変更することになった。
ヒワは清少納言の『枕草子』にも出てくるそうだが、私は見たことがない。
古語辞典に何か言及があるだろうか。ヒワ、マヒワ、いずれも記載がない。
カワラヒワ(カハラヒワ)も引いてみると、これも記載がなかったが、「河原通ひ」という単語に出会った。
「江戸時代、京都の賀茂川の四条河原へ、芝居見物に通うこと」(『古語林』大修館)
「そののち毎日の河原通いに」という西鶴の世間胸算用の用例が紹介されている。
役者が河原者と賤視されていた歴史を刻んだことばである。
河原通いといえば、広重の『名所江戸百景』に、「猿わか町よるの景」(さるわかちょう よるのけい)と題した芝居小屋や芝居茶屋を描いた作品があるのを思い出した。
現在の住所では猿若町はどこになるのだろう?と思って調べると、台東区浅草6丁目で、浅草寺の東、待乳山聖天の西の一帯になる。大川(隅田川)の河原エリアといえる。洪水があったら流される場所だったろう。
私は、殉教者ジョアン原主水こと原 胤信(はら たねのぶ、天正15年(1587年)-元和9年10月13日(1623年12月4日)が処刑されたのが、この浅草の乳山聖天と思いこんでいた。しかし浅草にはハンセン病患者の療養所に潜伏していただけで、処刑されたのは東海道の入口の高輪だったらしい。原主水について書きたいと思ったのは、ある潜伏キリシタンの遺宝を見たことがきっかけだった。
ところで、高野川と合流する前が賀茂川、合流すると鴨川になるというのが、私の乏しい知識による京都理解だった。しかし四条のあたりは、合流地点からはかなり下流である。江戸時代には、表記はそう厳密ではなかったのだろうか。
近代以降の俳句では秋の季語としてよく出てきますが、それ以前は諸説あって、大学の国文科教授あたりに聞いてみると一人一人言うことが違うというのが実状なのでは?
少なくとも一九八〇年代の大学というのはそういうところでした。
>河原者
主に中世以降、賤視されつつ日本の庭を作っていった職人集団ですね。銀閣寺の庭の水を抜いて一度本格的調査が行われた時、「穴太衆(あのうしゅう)」が持っていた水道設備敷設技術が水底から発見されています。
キリシタン弾圧を逃れて信徒が潜伏した場所について。有名なキリシタン大名などは、絶対秘密が死守される場として特定の遊郭が選定された歴史もありますね(秘)。
ではでは。
返事遅くなりました。
大坂の芝居街といえば道頓堀で、折口信夫もその隆盛ぶりをエッセイに記していたと思いますが、道頓堀は京都の河原町と違って運河ですね。
大正や昭和初期生まれの人によれば、昔の道頓堀は水遊びができるほど、澄んだきれいな水だったそうです。
道頓堀開削の重労働を科せられたのは、大坂の陣で敗れたキリシタンたちだったという説があります。
キリシタンは身分上「非人」になるのですね。「非人」は五代にわって「非人」になる。宗門人別帳でそのことを知ったミナミのお坊さんが、道頓堀開削に斃れた大坂のキリシタンたちを手厚く葬っているとのことです。