新・私に続きを記させて(くろまっくのブログ)

ハイキングに里山再生、れんちゃんとお父さんの日々。

箕面山シの彷徨 7月25日の記録③

2020年07月28日 | おでかけ

 帰り道も雨が続く。家を出た時点では、駅前にちょっと買い物のノリだったので、五分丈のズボン、裸足にスニーカーの出で立ちである。スニーカーには雨水がしみこみ、靴底は水浸しで、お風呂場で歩いているようである。

 帰り道は、時間の経過が気持ち早く感じる。大原の鯖街道、大江山、国上山、過去に歩いた道を振り返る。似ていることもあれば、そうでない場所もある。いちばん懐かしく思い出されたのは、登り窯の遺構調査でよく歩いた名古屋の東山遊歩道だった。立派な滝や美しい渓谷があるわけでもなく、こんなに険しい道でもなかったが、雨の日もお構いなしに歩き回っていたものである。

 箕面の滝に向かうのは、最初私一人かと思ったが、追い抜いたり追い抜かれたりで、行きは4、5人はいただろうか。帰りも、これから滝に向かう人たちと何組かすれ違った。

 後ろを歩く男女のペアがいる。女性のにぎやかな話し声と笑い声が響く。無神論者の私がいうもの何だが、山全体がご神体なのだろうから、山中では慎み深くあるべきではないか。まあ、今は世俗化したハイキングコースで、私も他人に意見できるような出で立ちではない。しかしわざわざ雨の日に出かけてきたのも、静寂を楽しみに来ているわけで、背後で騒がれるのはいい気はしない。

 黙々と歩いて、野口英世像のところまで戻ってきた。ここが滝道の中間地点であることに気がついたのはこの時である。



 見上げても、像らしきものは見えない。ちょっと高い場所にあるらしい。後ろのにぎやかな人たちをやり過ごすにはちょうどいい。英世像を見に行くことにした。

 野口英世(1876-1928)と箕面のつながりは知らなかった。15年間のアメリカ留学から一時帰国の際、待ちわびていた母を連れ箕面に立ちよったとき、滝道の料亭「琴の家」で開かれた歓迎の宴の席で、老いた母をかいがいしくいたわる英世の孝行のようすが皆の心を打ったのが、銅像建立の機縁になったという。建立は1955年で、戦争をはさみ、死後しばらく経ってからである。親孝行つながりで、野口英世と笹川良一は記憶のフォルダで近いところに保存されているので、そう意外な取り合わせでもなかった。忘れていただけで、このエピソードも何かで読んでいたかもしれない。

 英世象まで、結構歩く。4、50メートルほど歩いて、折り返してまた同じくらい歩いて、もう一度折り返した途中に像の立つ広場の裏口への入口がある。しかし崩落があったらしく、通行禁止の看板が立っている。少し登ると、下り坂になり、これが広場の表口である。野口英世が雨に打たれながら試験管を空にかざして見つめている。高さ10メートルから15メートルあまり、ビルの3、4階くらいだろうか。広場の崖際に立って、自分が歩いてきた道を見下ろした。







 よし、帰ろう。

 時刻は14時30分を回った頃で、気持ちはもう梅田である。しかし道が急に狭くなった。見た覚えがない金網が連なっている。「こんな道だったかな」と思いながら進んでいくと、行きには下に見えていた渓流が見えない。英世象からの帰り、滝道に戻りきらないうちに、別のハイキングコースに入り込んでしまったらしい。

 「箕面駅」という方向看板があったから、方角は合っているらしい。また戻るのは面倒だ。阪神淡路大震災間もない六甲山で、上級者コースに迷い込んだり、崖崩れで行き止まりの道で立ち往生した日を思えば、楽勝である。まだ晩酌には早いからそのまま進むことにする。全く、箕面山死の彷徨ならぬ痴(シ)の彷徨である。

 ところで、「象の足」って何だ?




(つづく)


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